2011年8月26日金曜日

情報保存

しばらくオフライン生活を満喫していた。
ツイッターやfacebookもほとんど見ずに、5日間ほど過ごしていた。
そんな生活を通して、感じたことがある。
情報を「知らないこと」に対する不安は、ツイッターをやればやるほど大きくなってゆく。
逆に情報を知らなくとも、それはそれで生活できてしまうということも、また事実。
実際に周囲を見渡せば、後者のほうが多いわけである。
情報の媒体がTVと新聞、という人のほうがまだまだ圧倒的に多い。
ツイッターなどのSNSは、そのあたりの感覚を麻痺させるような気がした。
皆このくらいの情報は知っていて当然だろう・・・と。

SNSを使い続けていると、例えばツイッターで「知らない」情報が流れてきた際に、そのルーツから探ろうとしてしまうタイプの場合、いわゆる「ツイッター疲れ」を起こすのかもしれない。
何から何まで知っていないと、取り残されたような不安で覆われるのではないか。
情報弱者と言われたくない、という背景がさらに不安を増強させる。
そして、生活上の大半をSNSに費やし、依存が形成される。
「チェックしないと落ち着かない」「スマホが手放せない」など。

さて、ツイッターと情報について、発達障害という視点を組み込んで考えてみる。
ツイッターではとても便利な機能により、TL上に流れていく情報を保存できる。ふぁぼったり、とぅぎゃったり、など・・・。

アスペルガータイプの人の情報保存様式を考えると、ツイッターは非常に有用なシステムであろう。向こう側にいる、与えた人の情緒的側面が見えにくく、「形式」をそのまま保存できるために、安心が得られやすい。いつでも確認できるというのも安心感に寄与しているだろう。
しかし実生活上は、目の前に相手が見えるため、与えられた情報に相手の「情緒」が「上書き」されて保存されてしまう傾向がある。「恐かった」「何であんな鋭い目つきしてたんだろう」などと。

アスペルガーの人たちにおいては特に、嫌悪を主体とする情緒に上書きされた情報は、消去するのが極めて困難である。消去困難な情報で埋め尽くされたハードディスクは、いつしか異音を発生させるようになるが、周囲は、なかなかそれには気づくことがない。

いっそのこと、そんなハードディスクを破壊してしまいたい、そんな衝動にかられていることが、少なからずいるのではないか、と臨床現場より感じる。
「もうこんな苦しい思いをするのなら、死んでしまいたい」
「私なんかいても役に立たない」
「どうしてそんな目で皆私を見るの」
アスペルガーの人たちの悲痛な叫び。それは、1人1人のこころの中でこだまし続ける。
誰にも反響せず、ただずっと、こだまし続ける。
保存されたデータが、競合しあって暴走しているかのように・・・。

情緒で上書きされた情報は、特に発達障害をもつ人たちの心を激しく揺さぶる。こころの中に何を保存すべきであるのか、もう一度考えてみたい。

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