2015年7月3日金曜日

ちょっとした愚痴ですが・・・

児童精神科医は、診察室に初めてやってきたこどもをみたときに、その子に何らかの障害があるかどうかを確認すべしという風潮になってるのだろうか?

その前に医師の役目として、まずは目の前にやってきたこどもたちが健康な状態かそうでないかを評価するのではないのだろうか?

「学校から医者に診てもらったほうがいい」と言われてきました、というケースは多いが、よく話を聞くと概ね健康な生活を家族皆営めている。強いて言えば学習が少々遅れているくらいのことである。でも医者っていうのは「病気」「障害」探索が癖になっているせいなのか、初診時に早速発達障害診断における評価尺度を機械的に用い「発達障害ですので特別支援教育云々」「療育支援を云々」そして親子共々不安に陥り不健康に...。

何やってんだよ下らなすぎる。医療現場で患者を不健康にさせてどうするんだよ。

2015年3月2日月曜日

反抗挑戦性障害

学校で教員に悪態をつきまくるこどもたちは、常に「見下されてるんじゃないか」と思っているようである。その背景には過去において度重なる叱責を受け続け、親や教員からの強力なコントロール下に置かれていたりしたことが臨床上多い印象を受ける。

だから「叱られてる」と感じると反応的に怒りが湧き上がってくる。結果、暴れて何人もの教員に押さえつけられると、自身の情けなさ、悔しさふがいなさやみっともなさを痛感することになり、余計にキレるだろう。

このようなこどもたちに対し、周囲の大人たちが関わる上で大切なことは、こどもたちの様々な願望があらゆる場面でかなわず途方に暮れていることについて理解することである。


勉強や運動や友達づきあい、そして親との会話など・・・色々あるがどれもうまくいかない理由として「どうやっていいかわからない、やり方がわからなくて諦めるしかないのか」という基底思考が常に渦巻いていることにあるのだろう。

どうしても方法が見出せずわからないことをやらされるのは苦痛であるし、一方でわからないことを認めたくはないために、このような子達はしばしば「めんど くさい」と表現する。「めんどくさい」という言葉を聞いた時、私は「やりかたがわからなくて困った、もう降参」と翻訳して聞くようにしている。
「君も何もかも嫌になって疲れ果てているようだ。うまくいくやり方がわかるようなアイデアをお互い出し合ってはみないか」などと「話し合う余地」を作り、解決に向けてまずはこども主導で推し進めていくことが解決への第一歩になり得るだろうと考えている。

そして、暴れるからやらせることができない、というスタンスではいつになってもこどもが何かを成し遂げる機会が与えられないため、ここは周囲のかかわる大人たちが腹をくくり、本人の強みや持ち味を評価して思い切って任せてみることが必要であろう。

「ここは君に任せてみたい。頼むぞ!」と後押しする周囲の心意気、そして信用が、このタイプのこどもたちに幾ばくかの勇気を与えると信じたい。

2014年12月3日水曜日

わだかまり

「心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など。また,そのためにすっきりとしない気持ち」一般的にこれを「わだかまり」と呼ぶ。大きな わだかまりが、日々の生活で次から次へとやってくる様々なわだかまりを滞留させてしまい、いわば「わだかまりのtraffic jam」が起こる。

後から突然やってきたわだかまりが、先行するわだかまりに追突し、付随するネガティブな感情を惹起させる。そしてまるで玉突き衝突のイメージである。 traffic jamの状況が長く続けば続くほど、生起した感情がどのエピソードによるものか区別が難しくなり、混乱は大きなものとなる。

ある時わだかまりの交通整理役が登場し、traffic jamは解消されないが追突を起こさずそこに停止することができるようになると、一旦感情の惹起は収束する。一見落ち着き解決したかに思えるその状態は、 感情の玉突き衝突が起こっていないだけかもしれない。まだそこに、ある。

わだかまりのtraffic jam解消を一時的にでも図る手立てとしての自傷行為、自己誘発性嘔吐、薬物やアルコールへの耽溺・・・。これらの「少しスッキリする」と表現される代償 行為による結果は、わだかまりのtraffic jamが一時的に通行可能になったことを示唆しているようだ。しかしながらそれらは長期的にはわだかまりのtraffic jamを長引かせてしまうかもしれない。通行したわだかまりは再び最後列に戻ってきてしまう。繰り返されるわだかまりのループとなる。

多重衝突を起こしているわだかまりの道先案内人はどこにいるのだろうか?もしかしたらどこにもいないのでは?そんな漠然とした不安を抱えながら、私の外来 にやってくるこどもたち。わだかまりの旅立ちの時を、共に実感する日がやってくることを信じ、これからもこどもたちと対話を続けていきたい。