2011年7月5日火曜日

花が咲く頃には

外来診察では、親子同席ということが多い。その中で、こどもに質問しているのに、すぐさま母親が回答する状況は少なからずみられる。
ここで、母の回答の内容にかかわらず、何が問題なのかが少しみえてくる。

こどもが何と回答しようか考えているにも関わらず、待ちきれないのか、代弁する母親。
こどもの表情は曇る。嗚呼、日常の関係性がまさに今、ここにあるのだな、と察する。

どんなこどもも、日常考えていること、感じていることがあり、それを元にしてやりたいこと、実現したいことをいつも頭の中でシミュレーションしている。
さあやるぞ、と思った時に、「おまえには無理でしょ~」「そんなことやってどうすんのよ」「いい加減にしなさい」強烈な制止が親よりかかる。

こどもは、当初はそれに反発するだろう。しかし、その反発も制止される。時には武力制圧も辞さない、といったような・・・。
「過干渉」それは、ただただこどもの行く手を阻み続けるだけである。
当然だが、こどもはそんな状況が続けば、逃げ出すしかない。

多くの親は、こどもの行く末を案じているのだが、問題はその案じ方なのである。
こどもはいつまでも幼少期の頃のような考えや行動をするはずがない。
いろんな経験から、何かを道しるべにして進んで行こうとする。親は本来その道しるべであってほしい。

診察で、母がこどもに「あんたが言いなさいよ」という場合の多くは、私の質問に対して母が出し抜けに答えてしまう。言えと指示しているのに結局言わせない。
こども自身どう振る舞ったらよいかわからない。
日常もきっと、やれと指示するのに親が代わりにやってしまう、のだろうか、と推測する。

こどもにとって大切なことは、親が「待てる」ことだと思う。こどもが何を考え、感じているのか、それを表現するのを待つこと。
花を無理に咲かせようとしないでほしい。じっくり待って、丁寧に観察し続けていれば、自ら大輪の花を咲かせるはず。

こどもの中でようやく芽吹いてきたその芽を、先にむしり取らないで欲しいと思う。
その芽とは、「おとなになりたい」という芽。
親自身がこどもの自立を願っているのに、その芽をむしり取ったら、「おとなになる」チャンスが失われてしまう。こどもはガッカリな気持ちでいっぱいになる。

こどもはいつか、巣立っていく。いつも夢見ているものです、大人の仲間入りを。
私たちは大手を振って迎え入れましょう、それはやはり、「待っている」ということなんです。

こどもたちに伝えたい。

「私は決して待ちくたびれたりしない。時に立ち止まってもちょっと戻っても、花が咲く頃には、君はきっと前に進んでいる」

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ああ…30過ぎてるけどこの構造変わらないな…。
いやひょっとしたらもう変わってるのかもしれない、でももう親が文句を言いながら手を出してくるっていう予測を織り込み済みでしかうまく動けなくなってる。