2011年6月30日木曜日

診断?タグ付け?免罪符?

多動で落ち着きがなく、周りのお友達と関われない、というこどもたちが、ほかの病院やクリニックを経由してやってくる。診断は「ADHD」と・・・。
実際に診察すると、鋭い眼光でこちらを窺うこどもの姿がある。

質問には「しらね~」「忘れた」「うっせーな」という言葉だけが返される。こちらの出方を探っているかのように・・・。
この時点で、純粋なADHDとは違う、と察する。
背負ってしまった何かがバックグラウンドにある、彼らを揺り動かしている何かが・・・。

学校では攻撃的、反抗的と称され、腫れものに触るような扱いを受けている。既に「ADHD」というタグをつけられ、それを免罪符のように示しつける。
「好きで暴れてるんじゃねーからな、えーでぃーなんとか、っていうんだからな!」
この一言で様々な事柄が終結してしまう。もちろん、良い意味ではない。

学校側は対応に苦慮し、家庭に連絡をしばしば入れることになる。
しかし、親は「うちの子はADHDなんです!」と一喝される。学校側としては、こういわれてしまうと成す術がない。

行動上の特徴を並べ立てて、該当すれば「ADHD」という安易なラベリングが、しばしば行われているような雰囲気を強く感じる。そうすることによって、混乱を収拾しようとする発想なのだろうか。
実際にこれは、ADHDの歴史を遡ってみると、理解できる。100年前は「モラルコントロールの欠陥」と名付けられていたのである・・・。

診察室で親子の関係を眺めてみると、親の横ではうつむいて小声でボソボソ話す少年が、そこにいる。質問をすると、1人の時は威勢がよかったのに、隣に母親がいると、顔色を窺い始める。
宿題やってる?の質問に、途端に落ち着かなくなるこどもたち。
母の視線を気にしつつ、「やってるよ・・・」。そして、母は「あれのどこがやってるってい うの?」と厳しい一言。そして「だってさ、・・・」それ以上は話すのをやめてしまう。
関係性が少しづつ見えてくる。見えにくいが、存在しているであろう支配服従構造が。

母に「好きにしたらいいじゃない、遊んでいたら?」と言われたこどもは、どうするか?その通りに振る舞うと、父から強く叱られ時に殴られるかもしれない・・・。
そんなことをずっと考えていたら、自分は何をしてよいかわからなくなり、やがて自分の存在価値まで疑問を持ち始めるだろう。

こどもを取り巻く全体像を俯瞰しなければならない。
こども自身の特性がクローズアップされている今こそ、親子の関係性を様々な角度から眺め評価することが肝要である。
「発達障害」「ADHD」という安易なタグ付けが、その関係性をマスキングしてしまうのである。

多動で落ち着きがないのは、周囲の反応に過敏になっているからかもしれない。過覚醒状態という評価、それは日頃の親子の関係性に着目した時に、重要な観点である。
いつもピリピリいらいら、穏やかな気持ちを失いつつあるこどもの気持ちを、想像し続けないといけない。

悔しそうな表情で、投げやりなことばを漏らすこどもたちに、伝えたい。

「実は、一本筋の通った、心やさしいところ。曲がったことは大嫌いでしょ?それは、本来の君だ」

0 件のコメント: