2011年5月28日土曜日

岡山虐待死事件より思うこと

岡山で痛ましい事件が起きた。長女を監禁して死なせた疑いで母が逮捕、日常的な虐待が行われており、長女は発達障害があったと・・・。

このような虐待に関する報道がなされると、大抵は「何てそんなひどいことを」「許せない」という反応が返ってくる。しかし、こどもの外来では、虐待が切迫 している状況でやってくるケースは実際非常に多い。「見ているだけで腹立たしくなってくる」「我が子を殺してしまいそうだ」など・・・。

切迫虐待はそれでも医療機関を受診する例は少なく、多くが孤立し、隠蔽された状況に追い込められている。こどもが勇気を振り絞って学校教員に伝えたことで発覚することも少なくない。今回の事件もそうであった、が、しかし・・・救われなかった。

「何を言っても全くいうことをきかないんです、もう・・・嫌」
虐待のリスクファクターとして、母の著しい不安緊張の持続と孤立化。こどもが言うことをきかない、それ自体が虐待を引き起こすというより、言うことを聞かないのを外から「あんたのしつけのせい」と責められるのでは、という不安にある。

「恥ずかしくて誰にも相談できませんでした」
こどものことを対外的な視点で”恥”と感じていたり、自らが子にしている言動そのものを”恥じて”いたりすることは多い。これは状況の孤立化と隠蔽化を一層強化していく。
助けられるものが助けられなくなる状況は、徐々に進行、悪化していく。

こどもに発達障害がある場合、その親は、周囲よりの風当たりが強いのを肌で感じており、多方面で頭を下げて回っていることもしばしば聞く。
「うちの子がまた人を叩いた」「店からものを勝手にもってきてしまった」など、親が謝罪する場面が圧倒的に多い状況も、診察で得られる情報である。

特に母親は、様々な場所、場面で頭を下げ回っている自分自身に、徐々に情けなさを感じ始める。こどもを育てているという実感は、いつしか底をつく。
追い打 ちをかけるように、夫や親より「おまえがちゃんと見ていないのが悪い」とまるで鋭利な刃物で突き刺されるような言葉がいつまでも頭の中を駆け巡る・・・。

虐待は複雑な事象である。様々な要素が構成要因となって、最終的にこどもが追い詰められてしまう。岡山の事件の報道をみると、保護しなかった理由として 「逃げることも可能だった」とあるが、虐待は圧倒的な無力感を引き起こし全面降伏せざるを得ない状態にさせる。
逃げられる場合はごくわずかもしくはほとんどないのである。

特に、発達障害をもつ子の場合であれば、「逃げる」という選択肢をすぐさま抽出することが困難であることは、障害の特性について、少しでも理解していれば想像できたのではないか。
児童相談所が、それを想像しなかったとすれば、罪は重い。

虐待は、一般の人々が想像するよりはるかに多く、そして、誰もが関与すべきことでもある、ということを現場から声を上げたい。
児童相談所だけが虐待対応をするのではない。誰もがそれに対応し、そして、誰もができるはず。少しでもいいから苦悩の理解と、その後の温かいまなざし。それが必要です。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして。九州のアラフォー看護師です。虐待でもですが、自殺でも若い人の命が絶たれるのはつらいものです。この前、「生きるための自殺学」という本を読んだのですが、周りの人の理解や援助があれば、本当に少しは変わるかもしれませんね。援助できるように学んでいきたいと思います。またブログ読ませてください。(^v^)失礼します。