2011年5月16日月曜日

「すりガラス」の向こうには

「普通って何だ」「適当に頑張るって、どこか矛盾している」

青年期にさしかかったアスペルガーの子たちが、外来の診察で眼に涙を溜めながら切実に訴えかけてくる。学童期の頃は特に何も言い返すことなく過ごしていた子たち、その変貌ぶりに親たちは動揺を隠しきれない様子である。

「均質化」が重視されているような現在の学校教育の風潮を感じずにはいられない。「出る杭は打たれる」そんなことを痛切に感じているのがアスペルガーの青年たちであろう。
アスペルガーの青年の中には、つい言い過ぎてしまうことを自覚している 場合も少なくない。
「きっと本音を言っちゃうからヘンな目で見られるんだろうね」「でもそれがなぜいけない?」
世の矛盾と毎日対峙せねばならない苦痛の 日々。正論が、正論でなくされてしまう絶望感とともに・・・。


自分のせいで雰囲気変っちゃった、という経験を語るアスペルガー青年は非常に多い。周囲への同調、対他配慮重視の社会であることを誰よりも感じている一方、それは果たして正しい社会なのか、という一石を投じているのも彼らなのである。
様々な経験や知識から、自分の中に湧き上がってくる感情をそのまま、装飾なしのことばにして伝えることが憚られる。アスペルガーの青年たちは、それこそ間違っているだろうという思いを、ずっと心の中に秘めて過ごしているのだろう。皆がすりガラス越しに話をしているように映っていると感じている。

いわゆる「社会性の獲得」というものは、本来純粋に感動したり喜んだり、また腹立たしく悲しかったり、というピュアな感情を少しずつ覆いかぶせていくような、どこか寂しい過程なのかもしれない。
アスペルガーの青年たちは、それに真っ向から勝負を挑もうとしているが、大多数の力で押しつぶされている。 

いったい何を理解してもらいたいのか?それは「自分が”アスペルガー”であること」とは違う。ただただ、自分の純粋な考えや行動について、である。
アスペルガーの青年たちを診ていて思う。今の日本社会がピュアでなくなりつつある、しかもそれは進行性のようだ。さらに怖いのは、その流れが当たり前のようになりつつある、ということを。

すりガラスの向こうには、いったい何をみたらよいのだろうか・・・。

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