2010年1月12日火曜日

障害か?個性か?

発達障害支援は、眺める視点が大切であろうか。

私は臨床医であるので、発達障害を脳の機能障害と捉える側面を持っている。
生物学的基盤としての「障害」という視点である。
その一方で、発達障害児が抱える様々な特性は「個性」として捉えよう、という視点も持ち合わせている(はずである)。
生活様式、対人関係、趣味、特技など・・・は個別性が重要視されそれらを尊重することこそが支援の原点であるという見方である。

今日、「師」との対話で、障害論としてこんな話題が飛び出した。

「視覚障害者においては、目が見えないことを“個性”と呼ぶことはないだろう。それなのに、発達障害という“障害”は“個性”という視点がある・・・臨床医としては何か奥歯にものがはさまった感覚だね」
と師が語る。

確かにその通りである。
身体障害においては個性という見方をすることはないに等しい。肢体不自由の人をみて「個性的」と捉えるはずがない。

発達障害に関して、支援者の眺めは「障害」という“視点”は同じだが、“視線”が違うのである。

“視点”とはまさに視るべきポイント、「障害」という点にspotがあたる。脳機能「障害」であったり、中枢性統合「障害」であったり、想像性の「障害」であったりするわけだ。

一方“視線”とは、その人をどんな思いで見ているか、そこには複雑な感情や思考が含まれる、そんな意味が付加される。天才だけど変わった人、空気読めない人、付き合いにくいなあ・・・、○○博士だ!すごい!!など・・・眺める人の価値観がそこに集約される。

「障害」という“視点”を軸にして、それぞれの“視線”という価値観を議論し、互いの差異を理解することを継続すること。私はこれが障害者におけるバリアフリーの基礎になると考えている。

このような議論をできる場が少ない現状を、嘆くしかないですね・・・。

1 件のコメント:

Toru Uehara さんのコメント...

早速の意見ありがとう。
発端となった事態を、少々追記させてください。
ある有名な教授が書かれた、アスペスガー障害の啓蒙書を、読ませていただきました。
その中で、身体障害にならって発達障害の「治療」を論じられている点に、違和感を覚えたんです。
身体機能の差異を個性と視ることは、私の中では自然にあります。
障害を障害たらしめること、外的(社会など)、および内面の不自由さ(いわゆるスティグマ)に、その源がある感覚をもちます。
しかし私は、重度カナータイプの方を、個性と呼べるほど、厳しい体験の自由度を、まだ有しておりません。
これはきわめて個人的な規定です。

「一つ目人間の国の悲劇」という、
田坂広志氏の『風の言葉』を想起します。
二つ眼があっても、使わなければ、また使えなければ、一つ目の状況が普通になる。
そんな深い言葉です。
http://www.hiroshitasaka.jp/tayori/index.php