2009年11月19日木曜日

順序と階層

発達障害をもつ人の想像性に基づく諸問題に対し、見通しの持てるような支援の一つに
スケジューリングという時間的構造化を用いた手法がある。
スケジュールは、ある規則に基づいて構成される。その規則性について、

 「順序と階層」という概念を考えた。

順序は横並び、階層は縦並び、と言葉を変えるとわかりやすいだろうか。
並びという視点からすると似ているような気がするが、似て非なるものであると思う。
さて、「順序」か「階層」かどちらを選択するか?
「順序」でしょう、という支援者、「階層」でしょう、という支援者、どちらでもいいんじゃない、という支援者がいるのでは、と私なりの知見である。

順序という考え方は数学的思考で、時系列予測を基盤とする。
「順序」に重きを置く支援者は、方法論がロジカルであり明快な方向性を見出す一方、ディメンジョナルな視点では一元的となりやすく狭小的な側面もある。
「こうでないと筋が通らないでしょ、1の次は2に決まっているじゃない」的な部分が強調される支援者は、「順序的」支援のベクトルをもつ。

階層という考え方は社会学を基盤とした発想を連想させる。
「階層」に重きを置く支援者は、その積み木構造から下位層より出発し多次元的な可能性を見いだせる一方、論法がそれぞれのレイヤーにより異なるため統一という観点ではぶれを生じさせる場合がある。何らかの予期せぬ出来事により階層にずれを生じさせたり排除された場合の対処が困難である。特に、下位層に「ずれ」が生じるとそれより上位の層はすべてなし崩し的にずれる。
「まあ、今のところ問題ないから、そのままでいこうか、それともちょいと戻ろうか」的発想が基本の支援者は、「階層的」支援のベクトルをもつ。

ベクトルとは大きさと向きをもった量で示される。
支援の必要性と方向性ということである。

問題なのが「どちらでもよい」的発想者である。
この集団は発達障害支援に向かないだろう。
支援のベクトルをもっていない、知らない、さらに知らないことに気がつかない、それは危機である。

私の周囲を見渡すと「どちらでもよい」的発想人が、結構いることに気がついた。
日常でもそうだ。
順序は2の次、まずは言われたことをどうにかしないと。
階層なんて別に関係ない、上位層に睨まれなければ。下位層にまかせておけばいい。
こんな発想がまかり通っている。身の毛のよだつ思いである。

物事は順序立ててやる必要がある。論理的思考に基づいた説明が欲しい。
自分の置かれている階層に責任をもつべき、下があるからこそ上が存在できる、という当然の発想はないものか?

といいながらこんな私は、階層に所属しない。かやの外とも言えるかもしれないが・・・。

2 件のコメント:

Toru Uehara さんのコメント...

大変示唆に富む意見です。自分のベクトルを振りかえってみたいと思います。所長は、ヒエラルキーの概念をこえた自由度を持っているのでは?

Unknown さんのコメント...

>toruakiさん
ありがとうございます。まだまだ未完成の考察ですので、もう少し頭をひねってみることにします。それでもなかなかシニカルだと思います?