tag:blogger.com,1999:blog-59228213829612956822023-06-20T21:48:35.058+09:00所長 改 部長のblog子どもの心の診療の中から思うこと、感じることを
綴っています。
(なお、投稿記事の内容はプライバシーに配慮しています)Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.comBlogger102125tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-70941198896156956562015-07-03T10:04:00.003+09:002015-07-03T10:04:56.193+09:00ちょっとした愚痴ですが・・・児童精神科医は、診察室に初めてやってきたこどもをみたときに、その子に何らかの障害があるかどうかを確認すべしという風潮になってるのだろうか?<br />
<br /> その前に医師の役目として、まずは目の前にやってきたこどもたちが健康な状態かそうでないかを評価するのではないのだろうか?<br />
<br />
「学校から医者に診てもらったほうがいい」と言われてきました、というケースは多いが、よく話を聞くと概ね健康な生活を家族皆営めている。強いて言えば学習が少々遅れているくらいのことである。でも医者っていうのは「病気」「障害」探索が癖になっているせいなのか、初診時に早速発達障害診断における評価尺度を機械的に用い「発達障害ですので特別支援教育云々」「療育支援を云々」そして親子共々不安に陥り不健康に...。<br />
<br />
何やってんだよ下らなすぎる。医療現場で患者を不健康にさせてどうするんだよ。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-41684751064219384082015-03-02T09:26:00.001+09:002015-03-02T09:26:08.696+09:00反抗挑戦性障害 学校で教員に悪態をつきまくるこどもたちは、常に「見下されてるんじゃないか」と思っているようである。その背景には過去において度重なる叱責を受け続け、親や教員からの強力なコントロール下に置かれていたりしたことが臨床上多い印象を受ける。<br />
<br />
だから「叱られてる」と感じると反応的に怒りが湧き上がってくる。結果、暴れて何人もの教員に押さえつけられると、自身の情けなさ、悔しさふがいなさやみっともなさを痛感することになり、余計にキレるだろう。<br />
<span class="text_exposed_show"><br /> このようなこどもたちに対し、周囲の大人たちが関わる上で大切なことは、こどもたちの様々な願望があらゆる場面でかなわず途方に暮れていることについて理解することである。</span><br />
<div class="text_exposed_show">
<br />
勉強や運動や友達づきあい、そして親との会話など・・・色々あるがどれもうまくいかない理由として「どうやっていいかわからない、やり方がわからなくて諦めるしかないのか」という基底思考が常に渦巻いていることにあるのだろう。<br />
<br />
どうしても方法が見出せずわからないことをやらされるのは苦痛であるし、一方でわからないことを認めたくはないために、このような子達はしばしば「めんど
くさい」と表現する。「めんどくさい」という言葉を聞いた時、私は「やりかたがわからなくて困った、もう降参」と翻訳して聞くようにしている。<br />
「君も何もかも嫌になって疲れ果てているようだ。うまくいくやり方がわかるようなアイデアをお互い出し合ってはみないか」などと「話し合う余地」を作り、解決に向けてまずはこども主導で推し進めていくことが解決への第一歩になり得るだろうと考えている。<br />
<br /> そして、暴れるからやらせることができない、というスタンスではいつになってもこどもが何かを成し遂げる機会が与えられないため、ここは周囲のかかわる大人たちが腹をくくり、本人の強みや持ち味を評価して思い切って任せてみることが必要であろう。<br />
<br />
「ここは君に任せてみたい。頼むぞ!」と後押しする周囲の心意気、そして信用が、このタイプのこどもたちに幾ばくかの勇気を与えると信じたい。</div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-30814531314872358492014-12-03T13:30:00.002+09:002014-12-03T13:30:47.448+09:00わだかまり「心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など。また,そのためにすっきりとしない気持ち」一般的にこれを「わだかまり」と呼ぶ。大きな
わだかまりが、日々の生活で次から次へとやってくる様々なわだかまりを滞留させてしまい、いわば「わだかまりのtraffic jam」が起こる。<br />
<br />
後から突然やってきたわだかまりが、先行するわだかまりに追突し、付随するネガティブな感情を惹起させる。そしてまるで玉突き衝突のイメージである。
traffic jamの状況が長く続けば続くほど、生起した感情がどのエピソードによるものか区別が難しくなり、混乱は大きなものとなる。<br />
<br />
ある時わだかまりの交通整理役が登場し、traffic
jamは解消されないが追突を起こさずそこに停止することができるようになると、一旦感情の惹起は収束する。一見落ち着き解決したかに思えるその状態は、
感情の玉突き衝突が起こっていないだけかもしれない。まだそこに、ある。<br />
<br />
<div class="text_exposed_show">
わだかまりのtraffic
jam解消を一時的にでも図る手立てとしての自傷行為、自己誘発性嘔吐、薬物やアルコールへの耽溺・・・。これらの「少しスッキリする」と表現される代償
行為による結果は、わだかまりのtraffic
jamが一時的に通行可能になったことを示唆しているようだ。しかしながらそれらは長期的にはわだかまりのtraffic
jamを長引かせてしまうかもしれない。通行したわだかまりは再び最後列に戻ってきてしまう。繰り返されるわだかまりのループとなる。<br />
<br />
多重衝突を起こしているわだかまりの道先案内人はどこにいるのだろうか?もしかしたらどこにもいないのでは?そんな漠然とした不安を抱えながら、私の外来
にやってくるこどもたち。わだかまりの旅立ちの時を、共に実感する日がやってくることを信じ、これからもこどもたちと対話を続けていきたい。</div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-26821498591525865302014-11-25T15:32:00.003+09:002014-11-25T15:36:27.192+09:00指導とは何か<span style="font-size: small;"> よくある相談の中で「こどもたちの指導が難しい、うまくいかない」要因として、大別すると2つ。</span><br />
<span style="font-size: small;"><br /></span>
<span style="font-size: small;">1.指導内容そのものがその子自身受け入れがたいもの、または見当外れな方法で行っている。</span><br />
<span style="font-size: small;">2.指導内容や方法は概ね正しいのだが、続けていない。またはそのタイミングがずれている。</span><br />
<div class="text_exposed_show">
<span style="font-size: small;"> 大問題が発生したときに行われていることの多くは、注意や警告である。これを指導と勘違いしていることも少なくない。注意や警告は「大人主導」の一方的な発信である。これでは解決の余地を与えることは難しい。指導というものは、こどもたちが常に抱えている心配事や懸念について引き出すことを前提とした「こども主導」のコミュニケーションが基本であろう。</span><br />
<!--[if gte mso 9]><xml>
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</o:OfficeDocumentSettings>
</xml><![endif]--><span style="font-size: small;"><br /></span>
<span style="font-size: small;"> そして指導は問題が生じていないときにこそ行うことで効力を発揮するだろうと私は考えている。</span><br />
<span style="font-size: small;">指導とは、羅針盤の如くおよその行き先を指し示し、目的地にたどり着くまで導き続けることなんだろうから。</span></div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-65140312098299936382014-09-26T14:16:00.002+09:002014-09-26T14:16:18.202+09:00強度行動障害について一言私の職場では強度行動障害に対する研修事業を行っており、全国各地でこのような研修が広まりつつあるが、内容について個人的に何となくもやもやしている部分がある。<br />
<br />
知的障害者の行動障害について、「問題行動は支援上の問題から引き起こされる」ともはや定番?になりつつある内容。<br />
決め付けはよくないだろう。無論支援上の問題で惹起された行動が問題とみなされる場合もあるが、家庭や福祉支援の現場であらゆる手を尽くし、医療からのバックアップも行いながら試行錯誤して取
り組んでも難渋する事例は枚挙に暇がない。<br />
生物学的な背景(極度の感覚入力に帰する過敏性、生来的な睡眠覚醒リズムの問題など)を基に引き起こされている
反応や、何らかの身体疾患に罹患しそれによる体調不良の訴えが「行動障害」のようにみえたり、認知症を背景に持つ場合など、その理由は支援上の問題だけで
は説明できないことがあるわけでして。<br /><br />
評価には一定の手順というものがあるはず。当事者家族や心ある援助者の心が痛まぬよう、医療サイドからサポートしていきたい。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-90673043745962338242014-09-26T14:13:00.003+09:002014-09-26T14:13:54.591+09:00ジェンガ私の外来には様々な親子が様々な悩みを抱えてやってくるのだが、何とか均衡を保ちながら何とか生活を営んでいるのもまた事実である。<br />
<br />
横から飛び出しているものがある。それをそーっと引き抜いて上にそっと乗せ崩れぬよう均衡を保たせる。そう、ジェンガである。<br /> 横から引き抜き上に乗せても全体が崩れず保てている場合、引き抜いたそれは均衡には関与しないがそこにあって良いもの。引き抜いた時に崩れてしまう場合、それは均衡の拠り所となっているもの。<br />
<br />
<div class="text_exposed_show">
誰かに伝えても日常生活の均衡がとれそうだと直感している内容は、話してくれるかもしれない。しかし、これを伝えたら全てが台無しになるかもしれないと感
じていることは、話せないかもしれない。こどもたちが楽しげにジェンガをやっている光景をぼんやり眺めながらふと思った。</div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-16022473194015144742013-12-30T10:14:00.000+09:002013-12-30T10:15:24.631+09:00今年1年を振り返り<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}">本日は日当直。翌朝の当直明けをもって今年の仕事納めとなる。</span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}">この1年を振り返り、色んなこどもたちに出会った。</span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}">試行錯誤のケアの中で、私も様々なことを知り学ぶことができたと感じている。</span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}">何を知り学んだか、雑駁ではあるがまとめておきたい。 </span><br />
<br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}">外来にやってくるこどもたちの多くは「発達障害」であることを悩<wbr></wbr><span class="word_break"></span>んでいるのではなく、<br /> 「ともだちにいじめられたりからかわれる」<br /> 「いつも怒られる」<br /> 「分かっていることを何度もいわれる」<br /> 「自分の話をきいてくれない」<br /> など、自分の気持ちを「わかってもらえない」ことに悩んでいる。<br /> <br /> おとなとこどもの悩みにはかなりの相違がある。<span class="text_exposed_show"><br /> 例えば、親はこどもが「勉強しないこと」について悩んでいるが<br /> こどもは親に「勉強しろと言われ続けてウザい」ということに悩ん<wbr></wbr><span class="word_break"></span>でいる。<br /> 親は将来のことを見据えた悩みであるのに対し、こどもはまさに「<wbr></wbr><span class="word_break"></span>今でしょ」の悩みであること。<br /> <br /> 問題とみなされる様々な行動言動の背景には、たくさんの「話せな<wbr></wbr><span class="word_break"></span>い」「話したくない」悩み事が隠れている。<br /> 叱られっぱなしのこどもたちは、いつも行動で評価比較されること<wbr></wbr><span class="word_break"></span>に激しい憤りと悔しさを抱えていることが多い。<br /> きっとこどもたちは「誰も信用できない」「信じた俺がバカだった<wbr></wbr><span class="word_break"></span>」「いちいちうるさい大人たちばかりでウザい」と対人不信の真っ<wbr></wbr><span class="word_break"></span>只中にいるであろう。</span></span><br />
<br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show">悩めるこどもたちのこころの中には、今にも砕けそうなグラスが存在している。</span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show">その中にとめどなく注がれるストレスの水。今にも溢れそうで常に表面張力で踏ん張っているかのようである。</span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show">ある時に、一滴そこに水が注がれると、瞬く間にそれは漏れ出し怒りと悔しさ、悲しみの洪水の中で苦悩する。一度溢れだしたらもう止められない。そしてグラスは砕け散る。 </span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show"></span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show">療育を受けているからといって必ずしも社会適応がよくなるわけで<wbr></wbr>はない。<br /> 療育で相談するスキルをせっかく身につけても、周囲が話を聞かず<wbr></wbr><span class="word_break"></span>「相手にされなければ」結局人を頼れず孤立する。<br /> 療育で知ったこと、学んだこと、悩んだことなどを、まずは親や頼<wbr></wbr><span class="word_break"></span>れる大人たちとああだこうだと言い合えることが何よりも大切なこ<wbr></wbr><span class="word_break"></span>と。<br /> 療育とは、世知辛い世の中で生きていかねばならないための「処世<wbr></wbr><span class="word_break"></span>術」の冒頭部分と考えてほしい。<br /> 世に出てからの生活のほうが圧倒的に長いという現実。<br /> 療育で学んだり培ったりしたことは、社会に巣立ってから様々な経<wbr></wbr><span class="word_break"></span>験を積み、いわゆる社会性を肉付けするための「骨」の部分である<wbr></wbr><span class="word_break"></span>という理解。<br /> <br /> 以上は、臨床経験に基づく私見である。</span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-62395778076130550772013-12-03T18:04:00.001+09:002013-12-03T18:04:42.416+09:00家出したい<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span>不思議なもので、ある時期になると、外来診察での相談内容が重複</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>する。<br /> 初冬になぜか多いのが思春期~青年期の子たちの「家を出たい」相談。<br /> <br /> なぜ家を出たいのか?出たくなったのか問うてみる。<br /><span> その多くは決して社会的自立を目的とした前向きな家出ではなく、</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>当てもないが家にいるよりは数段マシであるという消極的な家出を考えている</span>。<br /><span> それは唐突に思い立ったわけではなく、親に対する積年の憤怒が露出した</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>形である。<br /> <br /> 「今まで自分の話など聞いてもらえなかった」<br /> 「何を話しても屁理屈といわれる」<br /> 「頼れる人は親しかいないと思って相談したのになぜ怒られる?」<span class="text_exposed_show"><br /><span> 「"親だから心配するのは当然だ”といいながら平気で傷つけるこ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>とをいってくる」<br /><span> 「いつも”あの子は・・・”って比較されてばかりでかんけーねー</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>だろ他の人は」<br /> 「だめ、だめ、だめ!って何をしてもダメって何すりゃいいの」<br /> <br /><span> まるで固く閉じられたマンホールの蓋を吹き飛ばすような激しい怒</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>りと悔しさが<br /><span> 診察室で顕になる。そのような姿を初めて目の当たりにする親は明</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>らかに狼狽しているのがわかる。<br /> <br /><span> そして家出したいこどもたちの多くは、鎮まった怒りの後にうなだ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>れながらこうつぶやく。<br /> 「もう誰にも・・・相談できない・・・」<br /> 差し延べようとする親の手を、振り払う。<br /> 「今さら・・・親ぶらないでくれ!」<br /><span> 診察室を飛び出したりうつむき泣きじゃくったり。その姿を、私は</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ただ見つめている。時々親の表情を窺いながら・・・。<br /> <br /><span> それでもこどもたちは、わかっている。やはり、自分だけではどう</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>することもできないということを。無力な自分にしばし打ちひしが</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>れている彼ら彼女らに、私は一言声をかけている。<br /> </span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show">「またおいでよ、待ってるから」</span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-3139834135096480222013-10-22T11:40:00.002+09:002013-10-22T11:40:41.659+09:00高齢知的障害者の健康と医療<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span>明日は神奈川県の某知的障害者施設で高齢知的障害者の健康と医療</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>に関する研修会で講演を行ってくる。<br /> <br /><span> 重度知的障害者の高齢化問題は医療・福祉ともに喫緊の課題である</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>。身体精神機能が低下し、介護上の負担が急増、家族や介護スタッ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>フが慢性疲弊状態に陥っている事態に、何も打つ手がないという現</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>状である。<br /> <br /><span> 現職に就く前は大学病院に勤務していた。大学病院で重度知的障害</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>者を診察する機会は多くはなかったが、数人の障害者を診察してい</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>たのを覚えている。そして、当事者の家族がいつも「本当にありが</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>とうございます。感謝しております」と丁重に頭を下げられていた</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ことを思い出す。<br /> <br /><span> 重度知的障害者の家族が皆、そこまで頭を下げられることについて</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>、現職に就いた今になってようやく分かった。診察を受けられる機</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>会があまりにも少なかったということを。幼少期から診察している</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>小児科医が成人になっても継続して診察していることも度々耳にす</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>る。<br /> <br /> <span class="text_exposed_show"><span>重度知的障害者を病院に連れて行くのはやはり一苦労である。例え</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ば、入るなり奇声を発し走り回る。何とか診察室に入ってもじっと</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>座っていられず診察にならないことも多い。採血を初めとする諸検</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>査も施行することができない。侵襲的な治療は全身麻酔下で施行し</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>なければならないこともしばしばある。家族はその都度頭を下げて</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>お詫びし、治療を受けさせてもらえるよう嘆願しているのである。<br /> <br /><span> 重度知的障害者の診療について、基幹病院から入院治療を断られ、</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>心ある開業医に往診してもらいながら在宅で何とか介護するしかな</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>いことも少なくない。状態の異変に家族が気づき、何とか病院へ連</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>れて行き頼み込んで検査を受けたら既にガンのターミナルステージ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>であったということも・・・。<br /> <br /><span> 知的障害者の施設においても高齢化に伴う医療アクセスの様々な困</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>難を抱えている。様々な理由でアクセスが阻害されてしまう。1人</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>の障害者を受診させるのにスタッフ3人配置が必要となれば、現場</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>の支援員が足りなくなる。大幅に勤務シフトを入れ替えねばならな</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>いこともあり、管理職も四苦八苦する。<br /> <br /><span> 診療機能を備えていない多くの民間知的障害者施設では、医療ケア</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ができないとの理由で、身体疾患合併をしている障害者を退所させ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ざるを得ない状況に追い込まれる場合もある。しかし、どの病院も</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>介護施設も受け入れを拒み、行く場を失う。まさに八方ふさがりな</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>状況があちこちで聞かれるようになっている。<br /> <br /><span> 当事者家族は自治体の障害福祉課に何度も頭を下げて受け入れ施設</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>を探してもらうよう頼み込んでいる。行政も多方面に働きかけるが</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>なかなか良い返事を頂けない。<br /> <br /><span> 知的障害者当事者の家族も年をとり、介護するにも限界がやってく</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>る。グループホームやケアホームの新設があちこちで始まっている</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>が、どこも既に予約で埋まっている。そして、入所後に身体疾患や</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>認知症の罹患・・・世話人では対応しきれず結局堂々巡りな現状は</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>続く。<br /> <br /><span> 現在の勤務先で診療を始め「とにかく診てもらえる病院や診療所は</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ないかと探し回りようやく巡り合った。途方に暮れていた毎日の中</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>で、何とか先が見える気がする。私たちは先に逝ってしまう。この</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>子をどうか宜しくお願い致します」と多くの当事者家族より感謝と</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>期待のお言葉を頂き、複雑な思いに駆られてしまう日々の臨床であ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>る。<br /> <br /><span> 多くの社会資源がある中で、そこに届かない人たちが数多くいる。</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ニーズはあるのに利用すらできない。身体疾患が重病であるがため</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>に施設生活を送ることができない人たち・・・居場所探しはいつま</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>で続くのだろうか。私もその答えを未だ見つけることができないで</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>いる。</span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-61779172749824262772013-08-28T09:07:00.000+09:002013-08-28T09:07:00.620+09:00現代社会を生きるこどもたち<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span>昨日埼玉県の某小学校で職員研修会があり、発達障害に関する話</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>題につき講演を行ってきた。<br /> <br /><span> 「落ち着かないこどもたちがたくさんいる。落ち着かせるにはどう</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>したらいいか」<br /><span> 「話が聞けないこどもたちがとても多く、どうやったら話を聞かせ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>られるようになるのか」</span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span>「発達障害のあるこどもたちが増えている</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>のでしょうか」<br /> こんな相談が学校サイドよりとにかく多い。<br /><span> これらの多くが「発達障害」を背景にした問題行動という認識を持</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>たれている現場も少なくなく、実際果たしてそうだろうか?<br /><span> 自閉症スペクトラム障害やADHDの有病率を考えても、そんなは</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ずはないだろう。<br /> <br /><span> 現代社会におけるライフスタイルの変化により、今のこどもたちに</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>課せられる社会的要求が早すぎたり過剰であったりするためか、快</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>適な生活を送る上で大切な睡眠や食生活が過小評価されている気が</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>している。<br /><span> 寝たいのに寝られない、寝ると宿題をやってないために起こされる</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>、お腹が<span class="text_exposed_show"><span>すいているが親の帰りが遅く待つしかない、空腹に耐えきれずに冷</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>蔵庫を物色すると後々怒られる、寝坊は許されず眠いのにたたき起</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>こされ、登校の準備もままならない状況でパンをかじりながら登校</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>するしかない、こんな毎日が続く中、落ち着けと言われて、はいわ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>かりましたと素直に応じられるであろうか?</span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show"><br /><span> 親も生活のために働きお金を稼がねばならず必死である。学童がど</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>こも定員いっぱいであることも、不景気回復の見通しが薄い現状を</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>如実に反映しているようだ。こどもの心身の健康のために早く寝か</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>せてご飯を食べさせてあげることの大切さにつき、多くの親は重々</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>承知している。</span></span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show"><span>子育てと生活費を得ることのジレンマとの闘いで</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>あり、ジレンマ解消の手立てとして、こどもに早期の自立を促さね</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ばならないことが必然となってしまっている。このような現代情勢</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>であるためか、学校サイドへの要求が保護者より増え、学校が解決</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>できる問題ではないことまで学校が背負わねばならないのが、今の</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>教育現場の実態である。心ある教員程疲弊し、ドロップアウトせざ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>るを得ない状況に追い込まれてしまうのもうなずける。<br /> <br /><span> そして、こどもたちにとって生理的欲求が満たされていない状況で</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>は、忘れ物も結果的に多くなるであろう。それを咎められ、準備が</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>できなければ自己責任なのだから恥ずかしい思いをさせ分からせる</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ことで行動が修正されると思い込んでいる人は未だ少なくはない。</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>偶発的に起こった出来事でで恥ずかしい思いをしたりするのは私も</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>経験したこともあるし致し方ないとも思うが、わざわざ恥ずかしい</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>状況のセッティングはいかがなものだろうか。<br /><span> 親がこどもの準備を手伝ってあげることを快く思わない教員もまだ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>まだ多い。<br /><span> 「自立が遅れるから」という根拠に乏しい理由で保護者に説明して</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>いたりする。<br /><span> 無論、こどもがやれることを先回りしてやる必要はないが、「保護</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>者」とはわが子が学校という集団の場で恥ずかしくみすぼらしく情</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>けない思いをさせないようにすることが、一つの役目であると思う</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>。<br /><span> こどもたちの育みにおいて、手伝ってもらったことの恩を忘れず感</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>謝の意を表明できるようになることや、準備を手伝ってくれた「恩</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>返し」としてのお手伝いなど別のミッションを遂行させ相互扶助的</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>な関係性の大切さを実感する積み重ねが必要であると感じている。<br /> <br /><span> 発達障害に関連するキーワードで必ずあがる「周囲の理解を」とい</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>うことばが、とても空虚に感じられる今日この頃である。</span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-36392547008651405862013-08-01T08:19:00.000+09:002013-08-01T08:19:05.521+09:00原点回帰<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span>最近は梅雨に逆戻りしたかのようなぐずついた天候が続いている。蒸し暑くて過ごしにくい。</span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span>こどもたちは夏休みになったので、学校の教員と面会する機会が増</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>えている。<br /> <br /><span> 教員からの相談内容としては、指導に難渋しており指導方法がわか</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>らない、言うことを聞いてくれない、反抗的な態度を改めようとし</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ない、忘れ物が多くて指導にならない、など・・・。<br /> <br /><span> 話を色々と伺っている中で、こどもたちに不評な教員の共通因子を</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>見出した。<br /> <br /> それは<br /> 発達障害に関する知識は豊富でよくお勉強されており、教員間では熱心との評価である一方で<br /><span> 「指導しよう」「教えよう」「援助しよう」という気持ちが強すぎ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ること<br /> であった。<br /><span class="text_exposed_show"> <br /> 自らの指導にのってくれるこどもは「良い子」で<br /><span> 指導にのらないこどもは「困った子」と区分しているように思えて</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>くる。<br /> <br /> このようなタイプの教員からは<br /><span> 「是非指導方法について教えていただきたい」「通級指導教室を勧</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>めるべきでしょうか」「宿題に関してどの程度まで・・・」と尋ね</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>られることが多く、ここで私は</span></span><br />
<br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show">「こどもたちの話を聞いてあげてください」<br /> とだけお答えしている。</span></span><br /><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][1]"> </span><span data-ft="{"tn":"K"}" data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0].[0]"> </span></span></span><br />
<span data-ft="{"tn":"K"}" data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0].[0]">指導や援助のヒントそのものが書籍やネットに書かれているわけではない。</span></span></span><br />
<span data-ft="{"tn":"K"}" data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0].[0]">書かれているのはあくまで「知識」や「情報」に過ぎない。</span></span></span><br />
<span data-ft="{"tn":"K"}" data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0].[0]">本人の中に、そのヒントが必ず存在しているはず。</span></span></span><br />
<span data-ft="{"tn":"K"}" data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0]"><span data-reactid=".r[5lwd].[1][4][1]{comment529376673777050_5400994}.[0].[right].[0].[left].[0].[0].[0][2].[0].[0]">本人との対話より得られたヒントから、指導や援助の方針について書籍などで得た知識や情報を駆使し、肉づけしたりそぎ落としたりしながらアレンジしていくものだろう。</span></span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show"></span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show"></span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show"></span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show"></span></span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span class="text_exposed_show"><br /> そして、こどもたちが信頼し好きな教員の共通因子は<br /> 話を聞いてくれること、であった。<br /> <br /> 原点回帰。指導に行き詰ったら足元を見つめなおしてほしい。</span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-50503605649336313892013-07-06T00:46:00.001+09:002013-07-06T00:46:11.293+09:00自殺の実態とその予防<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span>本日はセミナー「自殺の実態</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>とその予防」松本俊彦先生の講演を拝聴</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>させていただいた。</span><br />
<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><br /><span> 今まで国内</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>における自殺に関する話題は各種マスメディアで取り上げられるも</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>のの、自殺の真の実態についてはそれについての誤解や偏見、タブ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ー視されている風潮などより事実を正確に伝えられているとは到底</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>思えなかった。<br /> <br /><span> 自殺は、様々な要因が複雑に交絡し起こる事象である。うつ状態は</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>自殺の最終共通経路だが、それに至るまでの要因はメンタルヘルス</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>以外の問題を多く含み、経済困難、多重債務など生活に直結した問</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>題を初め、虐待やいじめなどこども時代における体験、犯罪被害や</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>被災などトラウマの影響を無視できない。自殺は精神健康保健上の</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>問題だけではなく、多角的視点のソーシャルワークの必要性を松本</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>先生は強調されていた。<br /> <br /> 「ある<span class="text_exposed_show"><span>時を境に何もかも変わってしまった」深刻なトラウマを受けた人々</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>の話である。自死遺族と話す機会があった時に同様の話をうかがっ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>た記憶がある。昨日まではいつもどおりの日常であったのに・・・</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>。そして自らを責め続ける毎日。「なぜあの時声をかけられなかっ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>たのか」「何もしてやれなかった」。<br /> <br /><span> 身近な人の自殺は、自殺企図のハイリスクとなる。生活の拠り所と</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>なる存在の喪失を機に、周囲より偏奇の目にさらされ、今まで仲の</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>良かった友人が離れていき心理的孤立を生む。所属感の減少がうつ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>状態を引き起こし徐々に心理的視野狭窄をもたらし、解決の術を自</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>死という手段でしか考えられなくなる。<br /> <br /><span> 私は少年院でいわゆる非行少年の診察をしている。非行少年から語</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>られる「死にたい」気持ちの告白は、もしそれが和らぐのであれば</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>「生きたい」というメッセージでもあろうと感じる。それは、自殺</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>を考えたり実際に図ったことがある少年は多いが、生きるための手</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>段として、苦しみを忘れ解決したいという気持ちから薬物を摂取し</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>たり、自傷したりなどすることが多いからである。<br /> <br /><span> そして、少年らとの対話が進むにつれ「死にたくはないけど長生き</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>したくもない」と話す少年が多いことに気付く。この苦しみは消え</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ることはない、自傷や薬物・アルコール、過食嘔吐、援助交際など</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>の性的接触などあらゆる手段を用いて何とか生き延びてきたがさす</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>がに疲れ果てた、そんな思いを吐露し始める。<br /> <br /><span> 生きていて何の意味があるのか、こんな世の中で暮らすなら消えて</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>しまうほうが楽だから、と「生き苦しさ」を訴え続ける少年らに、</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>何と声をかけてよいのか悩み続けていた時期があった。しかし、わ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>かったことは「いつも抱えている思いを聞いてあげる」ということ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>が何よりもの救済になるということだった。<br /> <br /><span> 「死にたい」気持ちは同じ内容でも何度も繰り返し伝えてほしいこ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>と、生きていくことをもう少し延長してみること、延長する手段や</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ヒントは対話から得られるかもしれないこと、そんなことを細くて</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>も長く続けていくことを「死にたい」気持ちでいっぱいになってい</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>る少年らに伝え続けている。<br /> <br /><span> 本日の松本先生の講演より、自殺というテーマを「話題にする」「</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>聞く」ことの大切さを再認識できた。<br /><span> まさに臨場感あふれるライブであり、松本先生の講演が終了した後</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>の何とも言えない高揚感が未だに続きながら、当直業務の最中に日</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>頃の想いを含めた感想を綴っている。</span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-26734570676634086612013-06-02T21:25:00.002+09:002013-06-02T21:25:45.857+09:00足元を見よう<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}">当直中に「プライマリケアの精神医学」井原裕 著 読了。<br /> <br /><span> 自らの診療スタンスにそれなりの自尊はもっていたが、EBM重視</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>の医療モデルがここまで持て囃されるようになると、さすがに不安</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>に陥ることも時にあった。しかし、この著作を読んで改めて自らの</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>スタンスを後押ししてくれる根拠が多く描かれていた。<br /> <br /><span> 私が住む資源に乏しい地方都市では、来るこどもたちをとにかく診</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>なければいけない現状がある。「僕は私は発達障害でしょうか?」</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>といってやってくるこどもなどだれ一人いない。「起きられない」</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>「つまんない」「ムシャクシャする」「学校いきたくない」「友達</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>が誰もいない」など、生活上の悩みを抱えて皆やってくる。<br /> <br /><span> 生活上の悩みをずっと抱えるこどもたちが、保護者と様々な相談機</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>関を訪れると、たいていは「発達障害の可能性」と諭されて医療機</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>関にまわされるような状況が急増している。初診時に相談機関で何</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>を聞かれたかと問うと、細かい生<span class="text_exposed_show"><span>育歴に発達障害特性のチェックリスト、そして知能検査、という流</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>れが多い。<br /> <br /><span> 何時に起きて何時に寝ているか?食事は摂れているか?何を食べて</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>いるか?運動はしているか?家ではどんな話題の会話をしているか</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>?このような日常生活の基本となる事項について、何も確認されな</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>かったということは珍しくない。知能検査の結果で生活習慣がわか</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>るとでもいうのだろうか?<br /> <br /><span> 思春期の臨床では、朝起きられない、だるい、学校に行きたくない</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>、という相談が急増する。これらの相談に対し友人関係のストレス</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>、家族間の問題、さらには「アイデンティティの確立の問題」など</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ハードルをやたら上げた問題に置き換えようとする援助者が少なか</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>らずいる。足元を見よ。寝不足の原因は?<br /> <br /><span> 私の臨床経験上、思春期のこどもたちの多くはオーバーワーク。遅</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>くまで部活動、帰宅して夕食を摂って塾へ行く。塾で勉強した後帰</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>宅して今度は学校の宿題。あっという間に0時を過ぎている。入浴</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>して明日の準備などしていたらもう1~2時を回っている。朝練が</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>あるので6時には起床。4~5時間睡眠が慢性持続。<br /> <br /><span> 思春期になると周囲より期待されることが急増し、それに応えねば</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>いけないと実直に考えるタイプのこどもたちは、睡眠時間を削りな</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>がらヘトヘトなの毎日であるだろう。こんな疲弊した状態で相談機</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>関で心理的な問題を洞察させられたら、さらにへばるのは容易に想</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>像がつく。悩みを増やされて帰ることになりかねない。<br /> <br /><span> 私は、医学診断が何であれ、まず最初に伝えていることは「まずは</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>寝よう。寝る時間と起きる時間は固定。おいしい好きなものを一日</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>一回は食べたいね。軽い運動はしようストレッチでもいいから。で</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>きれば家のお手伝いを一つしてほしい。親はそれに「ありがとう」</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>と言ってあげて。宿題は中身より出すことに意義がある」これだけである。<br /> <br /><span> 生活上の指導なしの臨床はあり得ない。リズミカルな生活が確保さ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>れて初めてテクニカルなアプローチがいきてくるのではないだろう</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>か。<br /> <br /> もう一度言いたい。「まずは、足元を見よう」</span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-7806185057363186162013-04-27T08:25:00.003+09:002013-04-27T08:25:43.689+09:00コミュニケーション能力<span class="userContent" data-ft="{"tn":"K"}"><span>療育支援事業を行うに際し、親のニーズとして最も多かったのが「</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>コミュニケーション能力を高めて欲しい」というものである。<br /><span> これはまさに、現代社会で今最も求められているものの反映である</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>だろう。<br /><span> 一昔前のサービス体系は主に「対物」であり、今ほど高いコミュニ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ケーションスキルを必要とせずとも成り立っていた社会であった。<br /> <br /><span> 人は豊かさを求め続ける生き物である。豊かさを求めた結果社会資</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>源は多様化する一方である。その結果、現在のサービス体系の多く</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>は「対人」となっていった。<br /><span> 消費者の権利意識が高まるにつれ、消費者に対していかに独自性の</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>あるサービスを提供できるかは提供側にとって死活問題とも言えよ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>う。<br /><span> 消費者のニーズを把握する能力、それに応えるための説明能力、宣</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>伝技術など高度なコミュニケーションスキル。提供側は無条件にそ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>れを要求される。<br /> <br /><span> このような「対人」サービス隆盛の現代社会において生きづらくな</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>っている人たち<span class="text_exposed_show"><span>が昨今クローズアップされてきた。学校や職場など集団社会におけ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>る適応困難・・・それが例えば発達障害のある人たちであったりす</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>る。多様化したサービス産業で豊かな社会になりつつある現状が、</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>今まで顕在化することのなかった発達障害者の苦悩を浮き彫りにさ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>せているように映る。<br /> <br /><span> コミュニケーション能力が否応なしに求められてしまう現代社会。</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ぎこちなくても自らの思いを伝え、それを周囲が受け止めお返しす</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>る、とスタイルは形骸化の一途である。多大なる労力を費やしてま</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>で複雑極まりないコミュニケーションを行うことに、疲れ果ててい</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>る人たちが多くいる。<br /> <br /><span> 「シンプルイズベスト」などというフレーズは、コミュニケーショ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ンにおいては全く当てはまらなくなっている。ズバリと物申すこと</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>が敬遠され、本心を常にオブラートに包んで差し出さねばならない</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>。面倒な世の中になったものだ・・・。</span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-91426967764276564932013-03-26T20:24:00.001+09:002013-03-26T20:24:12.164+09:00「労い」のことば<span class="userContent">「最近学習に取り組むようになりました。行事にも参加するようにもなったんです。とても成長したと思います」</span><br />
<span class="userContent">学校教員よりこのような話を聞くことが時々ある。 </span><br />
<br />
<span class="userContent">こどもたちが何かに必死に取り組んでいる姿を見て<br /><span> 「成長している、頑張っている」という評価に留めておいていい</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>のだろうか?</span><br />
<span class="userContent"> <br /> もしかして、取り組まざるを得ない心境もしくは状況なのかもしれない。<br /><span> 取り組み続けないと無視されるかも、怒られるかも、という不安の</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>中でもがき続けている姿かもしれない。</span><br />
<span class="userContent"><br /> </span><br />
<span class="userContent">「だって・・・宿題やらないと親に怒られるし」「先生が“頑張って”っていうから・・・」</span><br />
<span class="userContent">診察でぽつりと漏らすこどもたちの声。 </span><br />
<span class="userContent"><br /><span> ほめられるために、評価を下げたくがないために頑張るしかないこどもたちが</span></span><br />
<span class="userContent"><span>私の周りには多くい</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>る。<br /><span> </span></span><br />
<span class="userContent"><span>こどもたちに必要なのは、ほめることもそうだがまずは「労う」こ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>とではないだろうか。<br /> <br /> 「ご苦労様でした」<br /> この一言が、常に気丈に振舞わねばならないこどもたちへ<br /> 束の間ではあっても安堵をもたらしうるだろう。</span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-70995053959330076672013-01-14T09:44:00.002+09:002013-01-14T09:45:07.766+09:00教員体罰問題より考える~アスリート学生の苦悩~<span class=" status_text description">大阪の高校生が自殺したという報道が連日のようにあり</span><br />
<span class=" status_text description">部活の顧問の体罰が背景に・・・という情報が繰り返し伝えられている。</span><br />
<span class=" status_text description">教員の体罰、そしてアスリート学生の苦悩を臨床経験も含めて綴ってみたい。</span><br />
<span class=" status_text description"> </span><br />
<span class=" status_text description">教員による体罰について。高校生を自殺たらしめた要因は体罰が直接原因か?</span><br />
<span class=" status_text description">もちろん、体罰は圧倒的な支配下を前提とした、無条件降伏を余儀なくされる、著しく歪曲した行為であり正当化されるものではない。</span><br />
<span class=" status_text description">自殺という悲劇の結果は、究極的に追い詰められた状況からの救済が断絶されたことだろう。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">自殺した高校生は幾度となくSOSを発信していたはずである。</span><br />
<span class=" status_text description">それはことばではなく表情や態度、身なり、行動など・・・。</span><br />
<span class=" status_text description">それに気がつかれなかったもしくは無視されていた、という事実がどこかに存在していたはずで、</span><br />
<span class=" status_text description">この現実がまさに悲劇的なことである。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description">自殺した高校生について、限定的な少ない情報から高校生の心情を思い巡らせて見る。</span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description">主将としての責任を果たせていない情けなさ、
学業は・・・きっと身が入らず焦っていたかもしれない。友人関係も、どこかぎくしゃくしてはいなかったか?</span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description">情報が限定的なので推測に過ぎないが、あらゆる面での行き詰まり、八方ふさがりを強く感じていたのでないだろうか。</span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">究極的に追いやられた状況になった高校生は、何十発も顧問に殴られたことが引き金となり「もう、俺は何の価値もない、だめだみっともない」という自己肯定感が押しつぶされた思考感情が一気に前景化したのかもしれない。</span></span></span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"></span></span></span><span class=" status_text description">命が失われてしまってからでは遅い。若者が追い詰められた状況になれば、誰でも必ず一度はSOS発信をする。それを見逃さず軽視せず、速やかに救済したい。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">私的経験であるが、全国レベルで活躍するアスリート高校生を何人か担当し診察したことがある。</span><br />
<span class=" status_text description">多くが抑うつ状態で追い詰められた状況にあった。</span><br />
<span class=" status_text description">共通事項として周囲の大人の「見栄」が多くの例で認められた。</span><br />
<span class=" status_text description">休部もしくは退部せざるを得ないと伝えると
「この子にはこれしかない!」と言い張る関係者。</span><br />
<span class=" status_text description">こどもはうつむいたまま。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">疲弊したアスリート高校生たちは、今振り返ると」私にすがるような眼差しを向けていたようだった。</span><br />
<span class=" status_text description">周囲の関係者の都合や見栄により、行く手を四方八方塞がれてしまっていたのだろう。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">こどもに対してどこも逃げ場のない状況を作り上げていく周囲の大人たち。</span><br />
<span class=" status_text description">「期待」という暗黙のプレッシャーを突き付ける。こどもはそれに応えねばならないという焦り。</span><br />
<span class=" status_text description">体罰も初めのうちは「どうして殴られなければ」という思いから徐々に「殴られて当然だ」。</span><br />
<span class=" status_text description">やがて心も体も痛みを感じなくなっていく。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">教員による常態化した体罰は、こどもたちを「殴られて当然だ」という歪んだ認知にさせてゆくだろう。それがさらに体罰の正当化を促進していく。</span><br />
<span class=" status_text description">教員の度重なる一喝そして平手打ちは、周囲に対しても「そりゃそうだよな」って思わせる恐ろしい空気が漂う。その空気は「あって当たり前」。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">こどもが生きていけるための進んでいける道は、本来無数に広がっているはず。</span><br />
<span class=" status_text description">大人のつまらぬ虚栄心で、その道を塞がないで欲しい。</span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-16240809254853899782013-01-09T12:04:00.000+09:002013-01-09T12:04:03.985+09:00置き去りにされたこどもたち発達支援センターで相談を受けていて時々感じることを綴ってみたい。<br />
<br />
日々の生活に苦悩しているこども本人を取り巻く大人たちが、こどもの診断は発達障害か否か、学校に行かせるべきかどうか、などそんな議論を繰り返してばかりで本人の気持ちを置き去りにしていることに、誰も気が付いていない。<br />
<br />
不登校状態のこどもたちは、学校に行かねばならないとわかっていても、足がすくんでしまう。<br />
そんな状況で発達障害か否かをひたすら議論して何の解決になるのだろうか。<br />
まずは不安と恐怖で怯えているこどもに対する安心保障を与えることが最優先事項である。<br />
<br />
以前受けた相談で、こどもは発達障害ではないと評価した際に、周囲から「それなら登校を促しても大丈夫ってことですか?」と尋ねられた時にはさすがに閉口した。<br />
最近の風潮として痛切に感じるのは、「発達障害」というワードに援助者を含めた大人たちがあまりにも振り回され過ぎているということである。<br />
<br />
発達障害であろうとなかろうと、まずはこどもたちの生の声に耳を傾けよう。<br />
そんなこと当たり前だろうということを、当たり前のようにやっていく。<br />
<br />
そして、時に非行少年の相談を受けることもある。<br />
非行少年が更生しようと決意し学校へ行きたいと言っているのにもかかわらず、学校サイドは服装の乱れなど表面上の評価に終始し、校則違反を続けているなら登校してはならないと突っぱねるようなこともまだまだ耳にする。<br />
なぜ校則違反を続けねばならないのかその理由を本人に問わずして。<br />
<br />
一般的に話し言葉で伝えることが何よりも大切なことと考えられているかもしれない。<br />
しかし、行動や態度で自己開示するしかないこどもたちは数多くいる。非言語的なメッセージに対して見て見ぬふりをされたり断罪されたりすることに、強い怒りと悲しみを抱えながらさらにもがきつづけねばならない。<br />
<br />
こどもたちを応援したいのであれば、様々な行動の裏側にある背景を探ろうとする不断の努力が、必要なのである。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-79389665041372732242012-12-22T09:22:00.000+09:002012-12-22T09:22:15.394+09:00「普通」って?<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"></span></span></span>「そんなことは“普通”でしょ」普通ではなかった今までの生活だったことを知らされた瞬間、自らを支えてきた何もかもが崩落する。</span><br />
<span class=" status_text description">虐待環境で生活していたこどもたちの「普通」を想像できようか?</span><br />
<span class=" status_text description">夕食がないかもしれないから学校で給食を吐くまで食べ続けることが「普通」であったりすることを。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description">我々が当然、普通のことと認識している世界は、被虐待児においては異質
で未知な世界である。「家族と一緒にご飯を食べたい」被虐待児からしばしば聞かれる望みを、「それは普通のことだから」と一蹴されることもある。</span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description">知らない知られないことがもたらす悲劇であり、虐待の悲劇は様々な側面で露出する。</span></span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">「甘えてみたかった」と話す虐待を受けてきたこどもたち。甘えたい人に自分だけを見てて欲しいがために、手を変え品を変え様々な行動をみせる。</span></span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">しかしながらその愛情希求行為は単なるわがままとみなされ、関心すら寄せてもらえない。その繰り返しで孤立を一層深めていく。</span></span></span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">「甘え」に応え続けると退行してわがままになる、という認識が広く流布
している印象を持つ。しかし、これは違うだろう。無知を伴った無関心が、回復を阻害する性質を帯びた退行を促進させる。そして、対応しているつもりでも、
被虐待児は見抜いている。「この人知らんぷりしたいんだ本当は」。</span></span></span></span><br />
<br />
<span class=" status_text description">被虐待児に関わる際には、まずは他者と「つながっている感じ」を持ってもらうことが大切だろう。</span><br />
<span class=" status_text description">間隔を置いた長時間セッションでの対話よりは、短時間でいいから頻度を多くした顔合わせのほうが安心することが多い。</span><br />
<br /><span class=" status_text description">虐待という複雑で深刻なトラウマを負ったこどもたちの回復には、何が必要なのだろう?SSRI?認知行動療法?EMDR?こどもたちが希求しているのは、まずは自分に向いている確固たる眼差しです。援助者がどこかそっぽを向いた認知行動療法など「もういいです」と断りたくて仕方ないだろう。技法やお薬はあくまで回復を促進させるための手がかりである。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">虐待を受けたこどもたちが、トラウマによる苦しみから回復するにつれ
「自分が悪かったのだから仕方ない」という考え方から「もしかして自分は都合よく利用されていたのかもしれない」と変化する時がやってくる。同時に激烈な
怒りと憎悪、そして落胆と絶望が抱き合わせたように頭の中を駆け巡る。</span></span></span></span></span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">怒り、憎しみ、悲嘆、絶望、抑うつ・・・虐待サヴァイヴァーの回復経過中多くに見られる感情の露出と変化。これらの感情が強烈に前面に顕れたり引っ込んだりしながら「らせん状に」回復する。</span> </span> </span> </span> </span> </span> <br />
<br />
こどもたちに対してしばしば伝えられる「将来きっと役に立つから」というメッセージ。<br />
そんな保証はどこにあるのか?まずは「今」を保証してあげねばそのようなメッセージは何の意味ももたない。特に虐待されてきたこどもたちにおいては、輝いたパースペクティヴを持てずにいるのだから・・・。<br />
<br />
将来とは、安心や立ち位置が保証された「今」の積み重ねである。<br />
<br />
将来というものは、突然はやってこない。<br />
<br />
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-14737028520398824012012-12-03T19:44:00.001+09:002012-12-03T19:44:29.709+09:00発達障害という「ラベル」<span class="userContent">日常の臨床では、精神医学診断について日々考えないことはない。<br /> 特に発達障害における診断は、その基準も含め大いに議論する余地が残されていると思う。</span><br />
<span class="userContent"><span>他院からの紹介状にも「広汎性発達障害」「アスペルガー症候群」という文字が立て続けに並んでいる。そして、様々な悩みを診断名が列挙された紹介状とともに抱えてやってくるこどもと親たちの姿は、疲弊しきっているように映る。</span></span><br />
<br />
<span class="userContent"><span>自分の理解を越えているからといって相手を安易に「発達障害」とラベリ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ングするのは、やめましょう。<br /> <br /><span> 先日の保護者向け講演会でも話してきたことだが、発達障害診断の</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>昨今の問題点としては、診断が免罪符のように取り扱われる可能性</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>、本来ある問題点(親子の関係性、虐待やいじめなどの告白できな</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>いトラウマ体験など)を発達障害診断がマスクしてしまう可能性が</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>あること、などである。<br /> <br /><span> 発達障害診断が、いつのまにか周囲にとって都合の良いラベリング</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>と化しつつある危険性を常に感じている。ここまで発達障害が「ブ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ーム」になる前は、人の思考や行動について様々な視点より多面的な評価をしてい</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>た気がするのに、最近は「発達障害」を落としどころとしてしまっ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ている風潮があまりにも大きくなり過ぎた感が否めない。<br /> <br /><span> 「発達障害」というビッグワードが、家族や支援者など周囲の評価</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>をむしろ浅薄にさせてはいないだろうか。貼られたラベルを通して</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>物事を見る時、それはフィルターの役割と化し、障害特性だけを恣</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>意的にクローズアップして見るようになる。人の感情や思考、行動</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>はそう単純化して推し量れるものではない。<br /> <br /><span> こどものメンタルヘルスに関する学会も発達障害ばかりのエントリ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ーが目立つ。これは発達障害支援における社会的要請の高さの反映</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>でもあろうが、こどもたちが抱えている諸問題は他にも多く存在し</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ている。<br /><span> こどもたちの評価診断援助をする立場が何を議論すべきか、今一度</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>見直す時期でもあるのではないだろうか。</span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-48727666772146359012012-11-19T23:12:00.000+09:002012-11-19T23:12:11.626+09:00「だめ」って言わないで・・・<span class="userContent"><span>少年院での診察から回想する。 </span></span><br />
<br />
<span class="userContent"><span>薬物乱用・依存、自傷や自殺企図、過食嘔吐、虐待や性被害などト</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span><span>ラウマによる影響、知的障害や発達障害、外国籍など言語的ハンデ</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>ィキャップなど・・・。<br /> <br /> これらは全て児童青年期における精神医学的な諸問題であり<br /> 「非行」という共通因子でLinkしている。<br /> </span><br />
<span class="userContent">劣悪な家庭環境から逃れるがための度重なる家出。<br /> 帰るあてもなく街を彷徨い歩き続け、辿りつく場所は・・・<br /> やはり暴力的な環境であったりする。<br /><span> 暴力が正当化される環境。いつしか自らも暴力を用いて解決しよう</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>としていた。</span><br />
<div class="text_exposed_show">
そんな自らの醜悪さに耐えきれず、「消えてなくなりたくなる」。<br /> <br /><span> 何とかして生きていきたいがための方策、術であった覚せい剤、過</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>量飲酒、手首自傷、自己誘発性嘔吐・・・。<br /> これらは、行動上「よくないこと」と社会的に容認されていない。<br /><span> 「社会的にだめなこと」をやって生きている自分はやはり「だめな</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>存在」だ、と一層傷ついている。<br /><span> だから、リストカットしていることやトイレで吐いていることを告</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>白できずにいる。<br /><span> 更生に向けて指導教育を行うはずである少年院ですら</span></div>
<div class="text_exposed_show">
<span>「だめなも</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>のはだめ」と苦悩の告白を退けようとする。<br /> <br /><span> どこに行っても「だめだ」と言われ続ける少年らは、どうやって生</span><wbr></wbr><span class="word_break"></span>きていけばいいのでしょうか。</div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-84209974677653348242012-10-30T08:10:00.000+09:002012-10-30T08:10:11.848+09:00こどもを叱ること、ほめること<span class=" status_text description">外来診察で「こどもが嘘ばかりつく」という相談は非常に多い。</span><br />
<span class=" status_text description">こどもがなぜ嘘をつかねばならないのか、その多くは「親や先生に怒られるだろうから」だろう。</span><br />
<span class=" status_text description">しかし、嘘がバレた時はさらに怒られそして徐々に知らないふりをするようになる。</span><br />
<span class=" status_text description">「怒らないから言ってみて」真実を述べるとやはり怒られる。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">嘘をつくことで叱られてばかりのこどもは、診察時に質問した時の反応ですぐに気付く。</span><br />
<span class=" status_text description">「宿題やってる?」と聞くと、即座に母(もしくは父)の表情を見てどう答えればよいか窺っている。やってると言えば「そんなことないで
しょ!」と、やってないと言えば「ちゃんとやりなさい!」と叱られる。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">何らかの質問に対し、こどもが親の顔色をすぐに窺う場合は、家庭での会話の多くが叱責で占められていると判断してよさそうである。なかなか答えらずもじもじしているこどもに対し、親が「お前に聞いてるんでしょ?!」と強く促す時、親の子に対する暗黙の支配構造が見え隠れする瞬間である。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">親がなぜそこまでこどもを叱らねばならないのか?社会の多様化と逆行するかのように学校教育は画一化を目指しているように映る。</span><br />
<span class=" status_text description">こどもが学校で課されているのは相変わらず前へならえ!できねば厳しく叱られはじかれる。そ
うはさせたくない親の思いが子への「叱責」となって表出するのだろう。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">「人前で恥をかかせたくない」「他者の痛みを分かってもらうため」に親は子を叱るのかもしれない。しかし、叱られ続けてこどもが感じ、分かるのは「自分は恥ずかしい人間である」「自分の痛みもよく分からなくなる」こと。</span><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"> </span></span></span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">こどもは親に、体験した出来事をまずは評価せずにまるごと聞いてもらいたいと、いつも思っている。テストで成績が振るわなかったことも、お友達とケンカしちゃったことも、先生から配られたプリントを学校に置き忘れちゃったこ
とも、まずはそのまま聞いてあげてほしい。</span></span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">「そうなの・・・」って。</span></span></span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"></span></span></span><span class=" status_text description">一方で、親が子をほめることについてはどうだろうか?</span><br />
<span class=" status_text description">ほめ方について「どうやって?」「どこを?」という親からの質問や相談も多い。</span><br />
<span class=" status_text description">ほめることが上手な人に共通するのは、褒め言葉の中に「感謝している」という意味合いを込めているということ。「おおー助かったわ~」「気を利かせてくれたね~」などという言葉掛けである。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">こどもたちには「何かに確実に貢献している」という実感を伴うような働きかけが大切である。</span><br />
<span class=" status_text description">役立たずな存在であるという歪曲した認知は、ダメ出しの連続や訴えに耳を傾けない周囲の態度で形成されてゆく。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">こどもたちが取る行動について、なぜ望ましいのかもしくは望ましくないのかを説明すること。自ら起こす行動の意味づけを、少しずつ理解できるようゆっくり伝えること。それを繰り返し継続すること。納得のいく理解ができる時は、いずれ社会へ巣立っていった時であってよい。</span><br />
<br />
<span class=" status_text description"><br /></span>
<span class=" status_text description"> </span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-91849748203158567732012-09-12T12:11:00.001+09:002012-09-12T12:11:33.901+09:00ウソかマコトか<span class=" status_text description">診察の中で「こどもがしばしば嘘をつくので困る」という相談は多い。 </span><br />
<br />
<span class=" status_text description">こどもが嘘をつくようになるその背景は、「またどうせ怒られるだろう」という考えが固まりつつあることが多い。事実でも嘘でも怒られるのが分かっていると、「忘れた」「知らない」とはぐらかすようになってくる。さらに、親の諦観をこどもが察すると、口を閉ざしてしまうだろう。</span><br />
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<span class=" status_text description"><span class=" status_text description">特にADHDタイプのこどもたちは、その行動の特性上、叱責を受ける頻度が高くなってしまう。</span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description">寛容でなくなりつつある現代社会に、このタイプのこどもたちは随分と過ごしにくさを感じているだろうと思う。周囲が築いている枠を越えたがっているこどもたちの姿に、時々胸を痛めてしまう。</span></span><br />
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<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">非寛容な状況では、嘘や偽りが増える一方である。何が真実であるのかわからず、皆疑心暗鬼になる。人の目を過剰に気にするようなこどもたちが増えているのは、少しでも枠を外れた主張は却下されてしまうような、社会の非寛容性が一因な気がしてならない。</span></span></span><br />
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<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">「まあ、それもありだよね~」というメッセージで、如何ほどのこどもたちが救われるだろうか。</span></span></span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">「それはあり得ないでしょ?」の乱発社会に息苦しさを感じているこどもの何と多いことか。</span></span></span></span><br />
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<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">診察ではいろんな話が飛び交うけれど、</span></span></span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">「それも“あり”かな」と、枠を大きく広げて診ていくことにしている。</span></span></span></span><br />
<span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description"><span class=" status_text description">枠を広げてみられるような自らの度量も、広がるといいなと思いつつ・・・。 </span></span></span></span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-91086134272158805382012-09-04T09:40:00.002+09:002012-09-04T09:40:44.141+09:00障害児療育<span class=" status_text description">知的・発達障害児の早期療育を行っている事業所を見学する機会があった。個別支援計画に基づいた、綿密に構造化されたスケジュール、環境整備、ワークシステム・・・など。</span><br />
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<span class=" status_text description">早期療育の目的として最も大切なのは、自立を「汎化」させることである。センター内ではできても、あるいは担当職員となら関われても、それ以外の場所や人ではできないのであれば療育の意義に欠ける。</span><br />
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<span class=" status_text description">療育の基本となるのはやはり「構造」であろう。TEACCHの理念を否定する一派もあるようだが、どんな人も構造の中で生活しているのを忘れてはならない。例えば職場であれば職階構造があり、指揮命令系統を明確にするためである。明確な構造、フレーム、境界がない状況では、個人自らの成すべきことがぼやけ、集団組織が掲げる目標に到達することはできないだろう。</span><br />
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<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">障害児の早期療育でもう1つ大切なことは、親への心理教育である。むしろ、これを行っていかなければ療育と呼んでいる内容も単なる託児と化してしまう。</span><span class=" status_text description"> </span><span class=" status_text description">療育の基本的な理念は、こどもたちが心身ともに健康な生活を送れるようにしていくことであり、親へのアプローチなしでは成し得ないのは自明である。</span><br />
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<span class=" status_text description">障害をもつ子の親のほとんどが望んでいることは、面倒を見ることができなくなっても、食べていけるように、生きていけるように・・・ということ。そんな親の望みを支え続けていくことも、療育なのである。</span><br />
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<span class=" status_text description">複雑にこんがらがった社会の中で、埋もれずに生きていってくれればよいと、障害児の親は願い続けている。周囲にいろいろとお願いすることに、引け目をずっと感じてしまっているものである。専門職であれば「気にせずお任せ下さい」と堂々と丸ごと受け入れる度量が必要である。いわゆる「バリアフリー」とはそういう心意気も含むのではないかと感じている。</span><br />
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<span class=" status_text description">療育に携わる支援者の心得としては、日常生活上の構造を明確にすることと、親への心理教育を実践すること。そしてこの2つが継続的に行われること。自立の最終目標は汎化であること。こどもの自立を願ういずれ先立つ親の心情を、常に考えていること。</span><span class=" status_text description"> </span><br />
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<span class=" status_text description">そんな思いを巡らせながら、療育センターに来ているこどもたちの笑顔に心和まされた。 </span><span class=" status_text description"> </span><span class=" status_text description"> </span><span class=" status_text description"> </span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-83594012412265880872012-08-20T17:58:00.004+09:002012-08-20T17:58:54.671+09:00過ぎたるはなお及ばざるが如し発達障害の特性は様々あるが、診療上最も重視する点は、全体から部分を抽出する困難さと、部分から全体を要約する困難さの混在である。<br />
これらが日常生活の「障害」となることが多く、複数人の会話となると、会話のキーを抽出するのに時間がかかったり、質問に対して即応的に要約できず、逐一説明し始めたりと、疲弊してしまうことがしばしばある。<br />
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特にアスペルガータイプの人に多いのが、「オーバーシミュレーション」である。<br />
論理的思考に長けていればいるほど過剰となり、セレクションやアウトプットに時間を要してしまう。これだけでも相当のエネルギーを使っているのに更なる要求が重なると、オーバーワークとなる。<br />
このタイプの特徴は、し「過ぎ」てしまうこと、そして、自らの状況、状態のモニター困難である。<br />
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発達障害のある人に対して「シンプルに、簡潔に」伝えるというのは、「選択肢を減らしスリム化する」ことでもある。セレクション~アウトプットまでの時間をいかに短縮できるか、それにより疲弊する度合いも断然低くなる。<br />
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発達障害のある人たちは、経験上疲弊し動けなくなるのがわかっているので、「こだわる」。<br />
決めていれば思考に費やすエネルギーを減らすことができる。<br />
発達障害者のこだわりは、「省エネ」のためとも言えよう。<br />
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ここで、発達障害者の過剰シミュレーション例を挙げてみる。<br />
「今日、飲みにいかない?」と誘われると、本当は行きたくないけど・・・他に誰が来るのだろう、いつ帰れるのか、どうやって帰りたいことを伝えるか、食べられるものがなかったらどうしよう・・・など、「飲みに行かねばならない状況」の考えで占拠され、他の情報が入らなくなるため、本来すべき業務、学業などに集中できなくなってしまう。<br />
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上記の誘いの例を修正してみる。<br />
「○○という居酒屋で、21時まで飲みに付き合って。△△の話をしたいので、聞くだけでいいから」と状況を絞り込んでお誘いすると、安心してもらえることが多い。そして、多くは話を真剣に聞いてくれる。自ら成すべきことが明確な時、特性はポジティブに作用する。<br />
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熟考し過ぎの果てに、何も成しえなかった、言えなかった、という体験が積み重なっているアスペルガータイプの人たち。<br />
日々「過ぎたるはなお及ばざるが如し」という心境なのだろう・・・。<br />
<br />Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-5922821382961295682.post-82140954975850485032012-08-18T03:13:00.002+09:002012-08-18T03:20:39.205+09:00思春期臨床~若者の自殺<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">思春期臨床では、初診時のこどもたちに「悩みはあるか」と問いかけても、「別にないです」と即答されることが多い。これは、悩むこと自体を「恥」と思う価値観が思春期に表面化するからである。思春期のこどもたちは、悩んでいるなんて暗いと思われる、知れたら孤立するなどの思いが錯綜している。</span><br />
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<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">「悩んでよい」という価値が置かれている場では、思春期の若者は少しずつ語りだす。「明るい」ことが最も価値あることという場では、悩みを回避またはないものとみなしてしまう。最も回避したいのは「孤立」なのである。</span><br />
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<span class=" status_text description"></span><span class=" status_text description">悩みなどない、と診察中は一点張りだった思春期の若者は、ふとした瞬間に悩みのかけらを落としていく。診察を終え、診察室から出ていく際に、私に聞いてほしいかのように「あ~あ、学校めんどくせ」と漏らしたりする。診察に来るたびに、少しずつ、ポロポロと、落としていく。</span><br />
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<span class=" status_text description">こどもが悩みのかけらを落としていった時には、「そっか」と返すのみにしている。ここで「○○したらどう?」と提案などすれば、思春期のこどもたちはもう、かけらを落としてくれなくなる。</span><br />
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<span class=" status_text description">思春期臨床は、特に初学者は、思春期特有の難しさのためか、言語能力の未成熟さや自我機能の脆弱さなどという心理学的側面にアプローチしがちになる。それよりもまず、こどもたちに「悩んでもよい」許容空間をつくってあげるこ
と。見くびってはいけない、思春期のこどもたちは結構話せるし、自分なりの思いを伝えられる。</span><br />
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<span class=" status_text description">悩みの許容空間では、思春期のこどもたちならではのことばで、一生懸命伝えてくれる。「超うざくないっすか学校の先生って?」「友達関係めんどいんだけど・・・」耳を傾ければ次々とかけらを落としてくれる。</span><span class=" status_text description"> </span><span class=" status_text description"> </span><span class=" status_text description"> </span><br />
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<span class=" status_text description">そして、「もう、生きていたくない」という重大なかけらを落としていく若者と出逢う。</span><br />
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<span class=" status_text description">若者の自殺。「死にたい」というよりも「消えてなくなってしまいたい」という気持ちであること。自殺という手段をとったら、家族に絶対迷惑がかかる、死んだあとまで嫌な思いをさせたくないという気持ちで思いとどまっていたりする。</span><br />
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<span class=" status_text description">消えてしまいたい衝動に駆られているこどもたちは、とにかく追い詰められていること。行き止まりにぶち当たってしまっていること。世の中に何も期待していないこと。信じることとは裏切られること・・・。</span><br />
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<span class=" status_text description">「長生きしたくない」と語るこどもたち、それは、虐待、いじめなど、深刻な心の傷を負ったこどもたち。積極的に自らの寿命を縮めることはせずとも、長生きは全く望んでいない。それは、やはり、この世に何も期待することがないと確信してしまっているからであろう。</span><br />
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<span class=" status_text description">診療の中では「カラオケボックス的に、生きていくのを1年延長しても悪くはないと思う」などと伝える。「死ぬな」ではなく「生きるのをちょいと先延ばししていい」というメッセージのほうが響く。「止められる」より「生きることを延長する」ことを後押しするほうが、若者には響く気がする。</span><br />
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<span class=" status_text description">「・・・延長か。それも悪くないかも」</span><br />
<span class=" status_text description">そんな返答をする少年たちの不安げな表情の中に、どこか安堵の表情が入り混じる瞬間を、見逃さない。 </span><span class=" status_text description"> </span><span class=" status_text description"> </span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/01003689216508189622noreply@blogger.com1