2012年1月17日火曜日

診断再考

明日の研修会を前にし、発達障害診断について再考してみた。

特にこどもにおけるその医学診断は、何を目的として なされるべきであるのか、慎重に検討しなければならない。
医学診断が支援の一助となることもあれば、逆に足かせとなることもある。
「発達障害」というビッグワードを 目の前にした親が、子に気を遣いすぎてしまうことだって、あるのだから。

例えば
アスペルガータイプの特性として、特に即興的な双方向性の対人関係構築が難しいことが多い。
周囲の理解をという盛んな啓発とは裏腹に、現状は「私はアスペなので・・・」と勇気を振り絞って相手に伝えたはよいが・・・
「だから何? なら仕方ないって言ってほしいの?」
このようなことはそう珍しくない。

「結局”アスペルガー”なんて診断なんかつかないほうがよかった」
と話す成人の当事者は少なくない。
診断が有利に働くのはまだまだ少数派のようである。
周囲と調和したいという思いが強ければ強いほど、実は診断が足手まといになってしまっているのだろうと、臨床実感として強い。

アスペルガータイプの当事者は、人付き合いの中で、様々な困難を抱えな がらも調和しようとする努力を続けている。
しかし、「アスペルガー」「発達障害」というワードが、ギリギリ保たれていた調和を、揺さぶってしまう。「変わったヤツ」から「障害者」という眼差しで見られる覚悟を以てして・・・。

こどもたちを診察していてしばしば聞かれる「自分は“障害者”なんかじゃない!」という訴えに、様々な思いを馳せる。
こどもたちがやがて成人になった時に、「ヘンな奴」として社会で生きていくほうが、「障害者」として生きていくよりまだましなのだろうか・・・と。

一旦発達障害診断がついたら、それは一生ついてまわると考えている人も 多いかもしれない。
しかしその診断は時と場合によっては「消える」こともある。
いわゆる発達障害「らしさ」はその時の状況、時間、人間関係によって前面に出るものであり、特徴が負の側面として顕著になり、生活適応が困難な時にのみ診断が与えられるべきだろう。


現行の医学診断は、いわばその人の「住所」が与えられるようなもので、「暮らしぶり」までは反映されない。
同じ「アスペルガー障害」という診断でも、それぞれの暮らしぶりは当然異なる。
診断が独り歩きして同じ括りで評価されてしまうところに、周囲からの誤解や偏見の一因があると思えてならない。

発達障害における医学診断は、生活を支援する上での一つの材料に過ぎない。
診断なくとも適切な生活支援がなされれば、それに越したことはない。
病気や障害をみるのではなく、「人」をみるという視点を、忘れないように・・・。

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