2010年11月20日土曜日

ダブルバインド

「ダブルバインド」な状態ほど苦しいものはない。
この状況の多くは、「虐待」として定義づけられる。
この状況に長期間置かれた場合、人はどうなってゆくか?

様々なところで、この「ダブルバインド」を見かける。

例えば、教育現場において。
学校教員と話していると、「授業妨害」「校内暴力」などのことばが次々と飛び出してくる。
学校教員は児童生徒に厳しくすれば「体罰」と揶揄され、優しくすれば「甘過ぎる」と叱責され、じゃあどうすればいいの?と路頭に迷っている。
教員はまるで、現場から虐待を受けているように感じられることがある。このような構造が学校教員に押しつけられている実態を、どのくらい知られているか、世にもう一度問うべきだろう。

そして、虐待の連鎖。それは「ダブルバインド」が連鎖している印象である。
「勝手にすればいい」という言葉が、「勝手にしたら許さん」を包み込んで投げつけられる。投げつけられた「玉」を次世代に投げ続けてゆくようである。「玉」を持たされたこどもは、それを渡す相手が見つかるまで抱え続ける。
ダブルバインドな「玉」を持たされた子は、それが何かの拍子に体の中でぶつかり、痛いのである。その痛みを和らげるため、手放そうとするその手段は、しばしば強引な方法を取らざるを得ない。暴れ、自分を傷つけ、それでも離れない。
ぶつかる「玉」に対する痛みの閾値が自然に上昇し、ぶつかっても「痛くない」状態にするメカニズムが構築されてゆく。意識が遠のき、自分がどこにいるのか、何をしているのかわからない感覚に陥るようになっていく。自己統制は難しくなり、ただただ佇むしかない。

「玉」を投げられた時の感情を思い出してみよう。
それを手放そうと無意識にやっていることを考えてみよう。
少しずつ、わかっていけばよい。寄り添ってくれる誰かと一緒にわかっていけばよい。
そうすれば、いつか、「玉」は消えてなくなっているんだ。

0 件のコメント: