2014年11月25日火曜日

指導とは何か

 よくある相談の中で「こどもたちの指導が難しい、うまくいかない」要因として、大別すると2つ。

1.指導内容そのものがその子自身受け入れがたいもの、または見当外れな方法で行っている。
2.指導内容や方法は概ね正しいのだが、続けていない。またはそのタイミングがずれている。
 大問題が発生したときに行われていることの多くは、注意や警告である。これを指導と勘違いしていることも少なくない。注意や警告は「大人主導」の一方的な発信である。これでは解決の余地を与えることは難しい。指導というものは、こどもたちが常に抱えている心配事や懸念について引き出すことを前提とした「こども主導」のコミュニケーションが基本であろう。

 そして指導は問題が生じていないときにこそ行うことで効力を発揮するだろうと私は考えている。
指導とは、羅針盤の如くおよその行き先を指し示し、目的地にたどり着くまで導き続けることなんだろうから。

2014年9月26日金曜日

強度行動障害について一言

私の職場では強度行動障害に対する研修事業を行っており、全国各地でこのような研修が広まりつつあるが、内容について個人的に何となくもやもやしている部分がある。

知的障害者の行動障害について、「問題行動は支援上の問題から引き起こされる」ともはや定番?になりつつある内容。
決め付けはよくないだろう。無論支援上の問題で惹起された行動が問題とみなされる場合もあるが、家庭や福祉支援の現場であらゆる手を尽くし、医療からのバックアップも行いながら試行錯誤して取 り組んでも難渋する事例は枚挙に暇がない。
生物学的な背景(極度の感覚入力に帰する過敏性、生来的な睡眠覚醒リズムの問題など)を基に引き起こされている 反応や、何らかの身体疾患に罹患しそれによる体調不良の訴えが「行動障害」のようにみえたり、認知症を背景に持つ場合など、その理由は支援上の問題だけで は説明できないことがあるわけでして。

評価には一定の手順というものがあるはず。当事者家族や心ある援助者の心が痛まぬよう、医療サイドからサポートしていきたい。

ジェンガ

私の外来には様々な親子が様々な悩みを抱えてやってくるのだが、何とか均衡を保ちながら何とか生活を営んでいるのもまた事実である。

横から飛び出しているものがある。それをそーっと引き抜いて上にそっと乗せ崩れぬよう均衡を保たせる。そう、ジェンガである。
横から引き抜き上に乗せても全体が崩れず保てている場合、引き抜いたそれは均衡には関与しないがそこにあって良いもの。引き抜いた時に崩れてしまう場合、それは均衡の拠り所となっているもの。

誰かに伝えても日常生活の均衡がとれそうだと直感している内容は、話してくれるかもしれない。しかし、これを伝えたら全てが台無しになるかもしれないと感 じていることは、話せないかもしれない。こどもたちが楽しげにジェンガをやっている光景をぼんやり眺めながらふと思った。

2013年12月30日月曜日

今年1年を振り返り

本日は日当直。翌朝の当直明けをもって今年の仕事納めとなる。
この1年を振り返り、色んなこどもたちに出会った。
試行錯誤のケアの中で、私も様々なことを知り学ぶことができたと感じている。
何を知り学んだか、雑駁ではあるがまとめておきたい。

外来にやってくるこどもたちの多くは「発達障害」であることを悩んでいるのではなく、
「ともだちにいじめられたりからかわれる」
「いつも怒られる」
「分かっていることを何度もいわれる」
「自分の話をきいてくれない」
など、自分の気持ちを「わかってもらえない」ことに悩んでいる。

おとなとこどもの悩みにはかなりの相違がある。
例えば、親はこどもが「勉強しないこと」について悩んでいるが
こどもは親に「勉強しろと言われ続けてウザい」ということに悩んでいる。
親は将来のことを見据えた悩みであるのに対し、こどもはまさに「今でしょ」の悩みであること。

問題とみなされる様々な行動言動の背景には、たくさんの「話せない」「話したくない」悩み事が隠れている。
叱られっぱなしのこどもたちは、いつも行動で評価比較されることに激しい憤りと悔しさを抱えていることが多い。
きっとこどもたちは「誰も信用できない」「信じた俺がバカだった」「いちいちうるさい大人たちばかりでウザい」と対人不信の真っ只中にいるであろう。


悩めるこどもたちのこころの中には、今にも砕けそうなグラスが存在している。
その中にとめどなく注がれるストレスの水。今にも溢れそうで常に表面張力で踏ん張っているかのようである。
ある時に、一滴そこに水が注がれると、瞬く間にそれは漏れ出し怒りと悔しさ、悲しみの洪水の中で苦悩する。一度溢れだしたらもう止められない。そしてグラスは砕け散る。

療育を受けているからといって必ずしも社会適応がよくなるわけではない。
療育で相談するスキルをせっかく身につけても、周囲が話を聞かず「相手にされなければ」結局人を頼れず孤立する。
療育で知ったこと、学んだこと、悩んだことなどを、まずは親や頼れる大人たちとああだこうだと言い合えることが何よりも大切なこと。
療育とは、世知辛い世の中で生きていかねばならないための「処世術」の冒頭部分と考えてほしい。
世に出てからの生活のほうが圧倒的に長いという現実。
療育で学んだり培ったりしたことは、社会に巣立ってから様々な経験を積み、いわゆる社会性を肉付けするための「骨」の部分であるという理解。

以上は、臨床経験に基づく私見である。

2013年12月3日火曜日

家出したい

不思議なもので、ある時期になると、外来診察での相談内容が重複する。
初冬になぜか多いのが思春期~青年期の子たちの「家を出たい」相談。

なぜ家を出たいのか?出たくなったのか問うてみる。
その多くは決して社会的自立を目的とした前向きな家出ではなく、当てもないが家にいるよりは数段マシであるという消極的な家出を考えている
それは唐突に思い立ったわけではなく、親に対する積年の憤怒が露出した形である。

「今まで自分の話など聞いてもらえなかった」
「何を話しても屁理屈といわれる」
「頼れる人は親しかいないと思って相談したのになぜ怒られる?」
「"親だから心配するのは当然だ”といいながら平気で傷つけることをいってくる」
「いつも”あの子は・・・”って比較されてばかりでかんけーねーだろ他の人は」
「だめ、だめ、だめ!って何をしてもダメって何すりゃいいの」

まるで固く閉じられたマンホールの蓋を吹き飛ばすような激しい怒りと悔しさが
診察室で顕になる。そのような姿を初めて目の当たりにする親は明らかに狼狽しているのがわかる。

そして家出したいこどもたちの多くは、鎮まった怒りの後にうなだれながらこうつぶやく。
「もう誰にも・・・相談できない・・・」
差し延べようとする親の手を、振り払う。
「今さら・・・親ぶらないでくれ!」
診察室を飛び出したりうつむき泣きじゃくったり。その姿を、私はただ見つめている。時々親の表情を窺いながら・・・。

それでもこどもたちは、わかっている。やはり、自分だけではどうすることもできないということを。無力な自分にしばし打ちひしがれている彼ら彼女らに、私は一言声をかけている。
 

「またおいでよ、待ってるから」

2013年10月22日火曜日

高齢知的障害者の健康と医療

明日は神奈川県の某知的障害者施設で高齢知的障害者の健康と医療に関する研修会で講演を行ってくる。

重度知的障害者の高齢化問題は医療・福祉ともに喫緊の課題である。身体精神機能が低下し、介護上の負担が急増、家族や介護スタッフが慢性疲弊状態に陥っている事態に、何も打つ手がないという現状である。

現職に就く前は大学病院に勤務していた。大学病院で重度知的障害者を診察する機会は多くはなかったが、数人の障害者を診察していたのを覚えている。そして、当事者の家族がいつも「本当にありがとうございます。感謝しております」と丁重に頭を下げられていたことを思い出す。

重度知的障害者の家族が皆、そこまで頭を下げられることについて、現職に就いた今になってようやく分かった。診察を受けられる機会があまりにも少なかったということを。幼少期から診察している小児科医が成人になっても継続して診察していることも度々耳にする。

重度知的障害者を病院に連れて行くのはやはり一苦労である。例えば、入るなり奇声を発し走り回る。何とか診察室に入ってもじっと座っていられず診察にならないことも多い。採血を初めとする諸検査も施行することができない。侵襲的な治療は全身麻酔下で施行しなければならないこともしばしばある。家族はその都度頭を下げてお詫びし、治療を受けさせてもらえるよう嘆願しているのである。

重度知的障害者の診療について、基幹病院から入院治療を断られ、心ある開業医に往診してもらいながら在宅で何とか介護するしかないことも少なくない。状態の異変に家族が気づき、何とか病院へ連れて行き頼み込んで検査を受けたら既にガンのターミナルステージであったということも・・・。

知的障害者の施設においても高齢化に伴う医療アクセスの様々な困難を抱えている。様々な理由でアクセスが阻害されてしまう。1人の障害者を受診させるのにスタッフ3人配置が必要となれば、現場の支援員が足りなくなる。大幅に勤務シフトを入れ替えねばならないこともあり、管理職も四苦八苦する。

診療機能を備えていない多くの民間知的障害者施設では、医療ケアができないとの理由で、身体疾患合併をしている障害者を退所させざるを得ない状況に追い込まれる場合もある。しかし、どの病院も介護施設も受け入れを拒み、行く場を失う。まさに八方ふさがりな状況があちこちで聞かれるようになっている。

当事者家族は自治体の障害福祉課に何度も頭を下げて受け入れ施設を探してもらうよう頼み込んでいる。行政も多方面に働きかけるがなかなか良い返事を頂けない。

知的障害者当事者の家族も年をとり、介護するにも限界がやってくる。グループホームやケアホームの新設があちこちで始まっているが、どこも既に予約で埋まっている。そして、入所後に身体疾患や認知症の罹患・・・世話人では対応しきれず結局堂々巡りな現状は続く。

現在の勤務先で診療を始め「とにかく診てもらえる病院や診療所はないかと探し回りようやく巡り合った。途方に暮れていた毎日の中で、何とか先が見える気がする。私たちは先に逝ってしまう。この子をどうか宜しくお願い致します」と多くの当事者家族より感謝と期待のお言葉を頂き、複雑な思いに駆られてしまう日々の臨床である。

多くの社会資源がある中で、そこに届かない人たちが数多くいる。ニーズはあるのに利用すらできない。身体疾患が重病であるがために施設生活を送ることができない人たち・・・居場所探しはいつまで続くのだろうか。私もその答えを未だ見つけることができないでいる。

2013年8月28日水曜日

現代社会を生きるこどもたち

昨日埼玉県の某小学校で職員研修会があり、発達障害に関する話題につき講演を行ってきた。

「落ち着かないこどもたちがたくさんいる。落ち着かせるにはどうしたらいいか」
「話が聞けないこどもたちがとても多く、どうやったら話を聞かせられるようになるのか」

「発達障害のあるこどもたちが増えているのでしょうか」
こんな相談が学校サイドよりとにかく多い。
これらの多くが「発達障害」を背景にした問題行動という認識を持たれている現場も少なくなく、実際果たしてそうだろうか?
自閉症スペクトラム障害やADHDの有病率を考えても、そんなはずはないだろう。

現代社会におけるライフスタイルの変化により、今のこどもたちに課せられる社会的要求が早すぎたり過剰であったりするためか、快適な生活を送る上で大切な睡眠や食生活が過小評価されている気がしている。
寝たいのに寝られない、寝ると宿題をやってないために起こされる、お腹がすいているが親の帰りが遅く待つしかない、空腹に耐えきれずに冷蔵庫を物色すると後々怒られる、寝坊は許されず眠いのにたたき起こされ、登校の準備もままならない状況でパンをかじりながら登校するしかない、こんな毎日が続く中、落ち着けと言われて、はいわかりましたと素直に応じられるであろうか?


親も生活のために働きお金を稼がねばならず必死である。学童がどこも定員いっぱいであることも、不景気回復の見通しが薄い現状を如実に反映しているようだ。こどもの心身の健康のために早く寝かせてご飯を食べさせてあげることの大切さにつき、多くの親は重々承知している。

子育てと生活費を得ることのジレンマとの闘いであり、ジレンマ解消の手立てとして、こどもに早期の自立を促さねばならないことが必然となってしまっている。このような現代情勢であるためか、学校サイドへの要求が保護者より増え、学校が解決できる問題ではないことまで学校が背負わねばならないのが、今の教育現場の実態である。心ある教員程疲弊し、ドロップアウトせざるを得ない状況に追い込まれてしまうのもうなずける。

そして、こどもたちにとって生理的欲求が満たされていない状況では、忘れ物も結果的に多くなるであろう。それを咎められ、準備ができなければ自己責任なのだから恥ずかしい思いをさせ分からせることで行動が修正されると思い込んでいる人は未だ少なくはない。偶発的に起こった出来事でで恥ずかしい思いをしたりするのは私も経験したこともあるし致し方ないとも思うが、わざわざ恥ずかしい状況のセッティングはいかがなものだろうか。
親がこどもの準備を手伝ってあげることを快く思わない教員もまだまだ多い。
「自立が遅れるから」という根拠に乏しい理由で保護者に説明していたりする。
無論、こどもがやれることを先回りしてやる必要はないが、「保護者」とはわが子が学校という集団の場で恥ずかしくみすぼらしく情けない思いをさせないようにすることが、一つの役目であると思う
こどもたちの育みにおいて、手伝ってもらったことの恩を忘れず感謝の意を表明できるようになることや、準備を手伝ってくれた「恩返し」としてのお手伝いなど別のミッションを遂行させ相互扶助的な関係性の大切さを実感する積み重ねが必要であると感じている。

発達障害に関連するキーワードで必ずあがる「周囲の理解を」ということばが、とても空虚に感じられる今日この頃である。

2013年8月1日木曜日

原点回帰

最近は梅雨に逆戻りしたかのようなぐずついた天候が続いている。蒸し暑くて過ごしにくい。
こどもたちは夏休みになったので、学校の教員と面会する機会が増えている。

教員からの相談内容としては、指導に難渋しており指導方法がわからない、言うことを聞いてくれない、反抗的な態度を改めようとしない、忘れ物が多くて指導にならない、など・・・。

話を色々と伺っている中で、こどもたちに不評な教員の共通因子を見出した。

それは
発達障害に関する知識は豊富でよくお勉強されており、教員間では熱心との評価である一方で
「指導しよう」「教えよう」「援助しよう」という気持ちが強すぎること
であった。

自らの指導にのってくれるこどもは「良い子」で
指導にのらないこどもは「困った子」と区分しているように思えてくる。

このようなタイプの教員からは
「是非指導方法について教えていただきたい」「通級指導教室を勧めるべきでしょうか」「宿題に関してどの程度まで・・・」と尋ねられることが多く、ここで私は


「こどもたちの話を聞いてあげてください」
とだけお答えしている。

 
指導や援助のヒントそのものが書籍やネットに書かれているわけではない。
書かれているのはあくまで「知識」や「情報」に過ぎない。
本人の中に、そのヒントが必ず存在しているはず。
本人との対話より得られたヒントから、指導や援助の方針について書籍などで得た知識や情報を駆使し、肉づけしたりそぎ落としたりしながらアレンジしていくものだろう。





そして、こどもたちが信頼し好きな教員の共通因子は
話を聞いてくれること、であった。

原点回帰。指導に行き詰ったら足元を見つめなおしてほしい。

2013年7月6日土曜日

自殺の実態とその予防

本日はセミナー「自殺の実態とその予防」松本俊彦先生の講演を拝聴させていただいた。

今まで国内における自殺に関する話題は各種マスメディアで取り上げられるものの、自殺の真の実態についてはそれについての誤解や偏見、タブー視されている風潮などより事実を正確に伝えられているとは到底思えなかった。

自殺は、様々な要因が複雑に交絡し起こる事象である。うつ状態は自殺の最終共通経路だが、それに至るまでの要因はメンタルヘルス以外の問題を多く含み、経済困難、多重債務など生活に直結した問題を初め、虐待やいじめなどこども時代における体験、犯罪被害や被災などトラウマの影響を無視できない。自殺は精神健康保健上の問題だけではなく、多角的視点のソーシャルワークの必要性を松本先生は強調されていた。

「ある時を境に何もかも変わってしまった」深刻なトラウマを受けた人々の話である。自死遺族と話す機会があった時に同様の話をうかがった記憶がある。昨日まではいつもどおりの日常であったのに・・・。そして自らを責め続ける毎日。「なぜあの時声をかけられなかったのか」「何もしてやれなかった」。

身近な人の自殺は、自殺企図のハイリスクとなる。生活の拠り所となる存在の喪失を機に、周囲より偏奇の目にさらされ、今まで仲の良かった友人が離れていき心理的孤立を生む。所属感の減少がうつ状態を引き起こし徐々に心理的視野狭窄をもたらし、解決の術を自死という手段でしか考えられなくなる。

私は少年院でいわゆる非行少年の診察をしている。非行少年から語られる「死にたい」気持ちの告白は、もしそれが和らぐのであれば「生きたい」というメッセージでもあろうと感じる。それは、自殺を考えたり実際に図ったことがある少年は多いが、生きるための手段として、苦しみを忘れ解決したいという気持ちから薬物を摂取したり、自傷したりなどすることが多いからである。

そして、少年らとの対話が進むにつれ「死にたくはないけど長生きしたくもない」と話す少年が多いことに気付く。この苦しみは消えることはない、自傷や薬物・アルコール、過食嘔吐、援助交際などの性的接触などあらゆる手段を用いて何とか生き延びてきたがさすがに疲れ果てた、そんな思いを吐露し始める。

生きていて何の意味があるのか、こんな世の中で暮らすなら消えてしまうほうが楽だから、と「生き苦しさ」を訴え続ける少年らに、何と声をかけてよいのか悩み続けていた時期があった。しかし、わかったことは「いつも抱えている思いを聞いてあげる」ということが何よりもの救済になるということだった。

「死にたい」気持ちは同じ内容でも何度も繰り返し伝えてほしいこと、生きていくことをもう少し延長してみること、延長する手段やヒントは対話から得られるかもしれないこと、そんなことを細くても長く続けていくことを「死にたい」気持ちでいっぱいになっている少年らに伝え続けている。

本日の松本先生の講演より、自殺というテーマを「話題にする」「聞く」ことの大切さを再認識できた。
まさに臨場感あふれるライブであり、松本先生の講演が終了した後の何とも言えない高揚感が未だに続きながら、当直業務の最中に日頃の想いを含めた感想を綴っている。

2013年6月2日日曜日

足元を見よう

当直中に「プライマリケアの精神医学」井原裕 著 読了。

自らの診療スタンスにそれなりの自尊はもっていたが、EBM重視の医療モデルがここまで持て囃されるようになると、さすがに不安に陥ることも時にあった。しかし、この著作を読んで改めて自らのスタンスを後押ししてくれる根拠が多く描かれていた。

私が住む資源に乏しい地方都市では、来るこどもたちをとにかく診なければいけない現状がある。「僕は私は発達障害でしょうか?」といってやってくるこどもなどだれ一人いない。「起きられない」「つまんない」「ムシャクシャする」「学校いきたくない」「友達が誰もいない」など、生活上の悩みを抱えて皆やってくる。

生活上の悩みをずっと抱えるこどもたちが、保護者と様々な相談機関を訪れると、たいていは「発達障害の可能性」と諭されて医療機関にまわされるような状況が急増している。初診時に相談機関で何を聞かれたかと問うと、細かい生育歴に発達障害特性のチェックリスト、そして知能検査、という流れが多い。

何時に起きて何時に寝ているか?食事は摂れているか?何を食べているか?運動はしているか?家ではどんな話題の会話をしているか?このような日常生活の基本となる事項について、何も確認されなかったということは珍しくない。知能検査の結果で生活習慣がわかるとでもいうのだろうか?

思春期の臨床では、朝起きられない、だるい、学校に行きたくない、という相談が急増する。これらの相談に対し友人関係のストレス、家族間の問題、さらには「アイデンティティの確立の問題」などハードルをやたら上げた問題に置き換えようとする援助者が少なからずいる。足元を見よ。寝不足の原因は?

私の臨床経験上、思春期のこどもたちの多くはオーバーワーク。遅くまで部活動、帰宅して夕食を摂って塾へ行く。塾で勉強した後帰宅して今度は学校の宿題。あっという間に0時を過ぎている。入浴して明日の準備などしていたらもう1~2時を回っている。朝練があるので6時には起床。4~5時間睡眠が慢性持続。

思春期になると周囲より期待されることが急増し、それに応えねばいけないと実直に考えるタイプのこどもたちは、睡眠時間を削りながらヘトヘトなの毎日であるだろう。こんな疲弊した状態で相談機関で心理的な問題を洞察させられたら、さらにへばるのは容易に想像がつく。悩みを増やされて帰ることになりかねない。

私は、医学診断が何であれ、まず最初に伝えていることは「まずは寝よう。寝る時間と起きる時間は固定。おいしい好きなものを一日一回は食べたいね。軽い運動はしようストレッチでもいいから。できれば家のお手伝いを一つしてほしい。親はそれに「ありがとう」と言ってあげて。宿題は中身より出すことに意義がある」これだけである。

生活上の指導なしの臨床はあり得ない。リズミカルな生活が確保されて初めてテクニカルなアプローチがいきてくるのではないだろうか。

もう一度言いたい。「まずは、足元を見よう」

2013年4月27日土曜日

コミュニケーション能力

療育支援事業を行うに際し、親のニーズとして最も多かったのが「コミュニケーション能力を高めて欲しい」というものである。
これはまさに、現代社会で今最も求められているものの反映であるだろう。
一昔前のサービス体系は主に「対物」であり、今ほど高いコミュニケーションスキルを必要とせずとも成り立っていた社会であった。

人は豊かさを求め続ける生き物である。豊かさを求めた結果社会資源は多様化する一方である。その結果、現在のサービス体系の多くは「対人」となっていった。
消費者の権利意識が高まるにつれ、消費者に対していかに独自性のあるサービスを提供できるかは提供側にとって死活問題とも言えよう。
消費者のニーズを把握する能力、それに応えるための説明能力、宣伝技術など高度なコミュニケーションスキル。提供側は無条件にそれを要求される。

このような「対人」サービス隆盛の現代社会において生きづらくなっている人たちが昨今クローズアップされてきた。学校や職場など集団社会における適応困難・・・それが例えば発達障害のある人たちであったりする。多様化したサービス産業で豊かな社会になりつつある現状が、今まで顕在化することのなかった発達障害者の苦悩を浮き彫りにさせているように映る。

コミュニケーション能力が否応なしに求められてしまう現代社会。ぎこちなくても自らの思いを伝え、それを周囲が受け止めお返しする、とスタイルは形骸化の一途である。多大なる労力を費やしてまで複雑極まりないコミュニケーションを行うことに、疲れ果てている人たちが多くいる。

「シンプルイズベスト」などというフレーズは、コミュニケーションにおいては全く当てはまらなくなっている。ズバリと物申すことが敬遠され、本心を常にオブラートに包んで差し出さねばならない。面倒な世の中になったものだ・・・。

2013年3月26日火曜日

「労い」のことば

「最近学習に取り組むようになりました。行事にも参加するようにもなったんです。とても成長したと思います」
学校教員よりこのような話を聞くことが時々ある。

こどもたちが何かに必死に取り組んでいる姿を見て
「成長している、頑張っている」という評価に留めておいていいのだろうか?

 
もしかして、取り組まざるを得ない心境もしくは状況なのかもしれない。
取り組み続けないと無視されるかも、怒られるかも、という不安の中でもがき続けている姿かもしれない。



「だって・・・宿題やらないと親に怒られるし」「先生が“頑張って”っていうから・・・」
診察でぽつりと漏らすこどもたちの声。

ほめられるために、評価を下げたくがないために頑張るしかないこどもたちが

私の周りには多くいる。
 

こどもたちに必要なのは、ほめることもそうだがまずは「労う」ことではないだろうか。

「ご苦労様でした」
この一言が、常に気丈に振舞わねばならないこどもたちへ
束の間ではあっても安堵をもたらしうるだろう。

2013年1月14日月曜日

教員体罰問題より考える~アスリート学生の苦悩~

大阪の高校生が自殺したという報道が連日のようにあり
部活の顧問の体罰が背景に・・・という情報が繰り返し伝えられている。
教員の体罰、そしてアスリート学生の苦悩を臨床経験も含めて綴ってみたい。
 
教員による体罰について。高校生を自殺たらしめた要因は体罰が直接原因か?
もちろん、体罰は圧倒的な支配下を前提とした、無条件降伏を余儀なくされる、著しく歪曲した行為であり正当化されるものではない。
自殺という悲劇の結果は、究極的に追い詰められた状況からの救済が断絶されたことだろう。

自殺した高校生は幾度となくSOSを発信していたはずである。
それはことばではなく表情や態度、身なり、行動など・・・。
それに気がつかれなかったもしくは無視されていた、という事実がどこかに存在していたはずで、
この現実がまさに悲劇的なことである。

自殺した高校生について、限定的な少ない情報から高校生の心情を思い巡らせて見る。
主将としての責任を果たせていない情けなさ、 学業は・・・きっと身が入らず焦っていたかもしれない。友人関係も、どこかぎくしゃくしてはいなかったか?
情報が限定的なので推測に過ぎないが、あらゆる面での行き詰まり、八方ふさがりを強く感じていたのでないだろうか。
究極的に追いやられた状況になった高校生は、何十発も顧問に殴られたことが引き金となり「もう、俺は何の価値もない、だめだみっともない」という自己肯定感が押しつぶされた思考感情が一気に前景化したのかもしれない。

命が失われてしまってからでは遅い。若者が追い詰められた状況になれば、誰でも必ず一度はSOS発信をする。それを見逃さず軽視せず、速やかに救済したい。

私的経験であるが、全国レベルで活躍するアスリート高校生を何人か担当し診察したことがある。
多くが抑うつ状態で追い詰められた状況にあった。
共通事項として周囲の大人の「見栄」が多くの例で認められた。
休部もしくは退部せざるを得ないと伝えると 「この子にはこれしかない!」と言い張る関係者。
こどもはうつむいたまま。

疲弊したアスリート高校生たちは、今振り返ると」私にすがるような眼差しを向けていたようだった。
周囲の関係者の都合や見栄により、行く手を四方八方塞がれてしまっていたのだろう。

こどもに対してどこも逃げ場のない状況を作り上げていく周囲の大人たち。
「期待」という暗黙のプレッシャーを突き付ける。こどもはそれに応えねばならないという焦り。
体罰も初めのうちは「どうして殴られなければ」という思いから徐々に「殴られて当然だ」。
やがて心も体も痛みを感じなくなっていく。

教員による常態化した体罰は、こどもたちを「殴られて当然だ」という歪んだ認知にさせてゆくだろう。それがさらに体罰の正当化を促進していく。
教員の度重なる一喝そして平手打ちは、周囲に対しても「そりゃそうだよな」って思わせる恐ろしい空気が漂う。その空気は「あって当たり前」。

こどもが生きていけるための進んでいける道は、本来無数に広がっているはず。
大人のつまらぬ虚栄心で、その道を塞がないで欲しい。

2013年1月9日水曜日

置き去りにされたこどもたち

発達支援センターで相談を受けていて時々感じることを綴ってみたい。

日々の生活に苦悩しているこども本人を取り巻く大人たちが、こどもの診断は発達障害か否か、学校に行かせるべきかどうか、などそんな議論を繰り返してばかりで本人の気持ちを置き去りにしていることに、誰も気が付いていない。

不登校状態のこどもたちは、学校に行かねばならないとわかっていても、足がすくんでしまう。
そんな状況で発達障害か否かをひたすら議論して何の解決になるのだろうか。
まずは不安と恐怖で怯えているこどもに対する安心保障を与えることが最優先事項である。

以前受けた相談で、こどもは発達障害ではないと評価した際に、周囲から「それなら登校を促しても大丈夫ってことですか?」と尋ねられた時にはさすがに閉口した。
最近の風潮として痛切に感じるのは、「発達障害」というワードに援助者を含めた大人たちがあまりにも振り回され過ぎているということである。

発達障害であろうとなかろうと、まずはこどもたちの生の声に耳を傾けよう。
そんなこと当たり前だろうということを、当たり前のようにやっていく。

そして、時に非行少年の相談を受けることもある。
非行少年が更生しようと決意し学校へ行きたいと言っているのにもかかわらず、学校サイドは服装の乱れなど表面上の評価に終始し、校則違反を続けているなら登校してはならないと突っぱねるようなこともまだまだ耳にする。
なぜ校則違反を続けねばならないのかその理由を本人に問わずして。

一般的に話し言葉で伝えることが何よりも大切なことと考えられているかもしれない。
しかし、行動や態度で自己開示するしかないこどもたちは数多くいる。非言語的なメッセージに対して見て見ぬふりをされたり断罪されたりすることに、強い怒りと悲しみを抱えながらさらにもがきつづけねばならない。

こどもたちを応援したいのであれば、様々な行動の裏側にある背景を探ろうとする不断の努力が、必要なのである。

2012年12月22日土曜日

「普通」って?

「そんなことは“普通”でしょ」普通ではなかった今までの生活だったことを知らされた瞬間、自らを支えてきた何もかもが崩落する。
虐待環境で生活していたこどもたちの「普通」を想像できようか?
夕食がないかもしれないから学校で給食を吐くまで食べ続けることが「普通」であったりすることを。

我々が当然、普通のことと認識している世界は、被虐待児においては異質 で未知な世界である。「家族と一緒にご飯を食べたい」被虐待児からしばしば聞かれる望みを、「それは普通のことだから」と一蹴されることもある。
知らない知られないことがもたらす悲劇であり、虐待の悲劇は様々な側面で露出する。

「甘えてみたかった」と話す虐待を受けてきたこどもたち。甘えたい人に自分だけを見てて欲しいがために、手を変え品を変え様々な行動をみせる。
しかしながらその愛情希求行為は単なるわがままとみなされ、関心すら寄せてもらえない。その繰り返しで孤立を一層深めていく。

「甘え」に応え続けると退行してわがままになる、という認識が広く流布 している印象を持つ。しかし、これは違うだろう。無知を伴った無関心が、回復を阻害する性質を帯びた退行を促進させる。そして、対応しているつもりでも、 被虐待児は見抜いている。「この人知らんぷりしたいんだ本当は」。

被虐待児に関わる際には、まずは他者と「つながっている感じ」を持ってもらうことが大切だろう。
間隔を置いた長時間セッションでの対話よりは、短時間でいいから頻度を多くした顔合わせのほうが安心することが多い。

虐待という複雑で深刻なトラウマを負ったこどもたちの回復には、何が必要なのだろう?SSRI?認知行動療法?EMDR?こどもたちが希求しているのは、まずは自分に向いている確固たる眼差しです。援助者がどこかそっぽを向いた認知行動療法など「もういいです」と断りたくて仕方ないだろう。技法やお薬はあくまで回復を促進させるための手がかりである。

虐待を受けたこどもたちが、トラウマによる苦しみから回復するにつれ 「自分が悪かったのだから仕方ない」という考え方から「もしかして自分は都合よく利用されていたのかもしれない」と変化する時がやってくる。同時に激烈な 怒りと憎悪、そして落胆と絶望が抱き合わせたように頭の中を駆け巡る。

怒り、憎しみ、悲嘆、絶望、抑うつ・・・虐待サヴァイヴァーの回復経過中多くに見られる感情の露出と変化。これらの感情が強烈に前面に顕れたり引っ込んだりしながら「らせん状に」回復する。     

こどもたちに対してしばしば伝えられる「将来きっと役に立つから」というメッセージ。
そんな保証はどこにあるのか?まずは「今」を保証してあげねばそのようなメッセージは何の意味ももたない。特に虐待されてきたこどもたちにおいては、輝いたパースペクティヴを持てずにいるのだから・・・。

将来とは、安心や立ち位置が保証された「今」の積み重ねである。

将来というものは、突然はやってこない。

2012年12月3日月曜日

発達障害という「ラベル」

日常の臨床では、精神医学診断について日々考えないことはない。
特に発達障害における診断は、その基準も含め大いに議論する余地が残されていると思う。

他院からの紹介状にも「広汎性発達障害」「アスペルガー症候群」という文字が立て続けに並んでいる。そして、様々な悩みを診断名が列挙された紹介状とともに抱えてやってくるこどもと親たちの姿は、疲弊しきっているように映る。

自分の理解を越えているからといって相手を安易に「発達障害」とラベリングするのは、やめましょう。

先日の保護者向け講演会でも話してきたことだが、発達障害診断の昨今の問題点としては、診断が免罪符のように取り扱われる可能性、本来ある問題点(親子の関係性、虐待やいじめなどの告白できないトラウマ体験など)を発達障害診断がマスクしてしまう可能性があること、などである。

発達障害診断が、いつのまにか周囲にとって都合の良いラベリングと化しつつある危険性を常に感じている。ここまで発達障害が「ブーム」になる前は、人の思考や行動について様々な視点より多面的な評価をしていた気がするのに、最近は「発達障害」を落としどころとしてしまっている風潮があまりにも大きくなり過ぎた感が否めない。

「発達障害」というビッグワードが、家族や支援者など周囲の評価をむしろ浅薄にさせてはいないだろうか。貼られたラベルを通して物事を見る時、それはフィルターの役割と化し、障害特性だけを恣意的にクローズアップして見るようになる。人の感情や思考、行動はそう単純化して推し量れるものではない。

こどものメンタルヘルスに関する学会も発達障害ばかりのエントリーが目立つ。これは発達障害支援における社会的要請の高さの反映でもあろうが、こどもたちが抱えている諸問題は他にも多く存在している。
こどもたちの評価診断援助をする立場が何を議論すべきか、今一度見直す時期でもあるのではないだろうか。

2012年11月19日月曜日

「だめ」って言わないで・・・

少年院での診察から回想する。

薬物乱用・依存、自傷や自殺企図、過食嘔吐、虐待や性被害などトラウマによる影響、知的障害や発達障害、外国籍など言語的ハンディキャップなど・・・。

これらは全て児童青年期における精神医学的な諸問題であり
「非行」という共通因子でLinkしている。
 

劣悪な家庭環境から逃れるがための度重なる家出。
帰るあてもなく街を彷徨い歩き続け、辿りつく場所は・・・
やはり暴力的な環境であったりする。
暴力が正当化される環境。いつしか自らも暴力を用いて解決しようとしていた。

そんな自らの醜悪さに耐えきれず、「消えてなくなりたくなる」。

何とかして生きていきたいがための方策、術であった覚せい剤、過量飲酒、手首自傷、自己誘発性嘔吐・・・。
これらは、行動上「よくないこと」と社会的に容認されていない。
「社会的にだめなこと」をやって生きている自分はやはり「だめな存在」だ、と一層傷ついている。
だから、リストカットしていることやトイレで吐いていることを告白できずにいる。
更生に向けて指導教育を行うはずである少年院ですら
「だめなものはだめ」と苦悩の告白を退けようとする。

どこに行っても「だめだ」と言われ続ける少年らは、どうやって生きていけばいいのでしょうか。

2012年10月30日火曜日

こどもを叱ること、ほめること

外来診察で「こどもが嘘ばかりつく」という相談は非常に多い。
こどもがなぜ嘘をつかねばならないのか、その多くは「親や先生に怒られるだろうから」だろう。
しかし、嘘がバレた時はさらに怒られそして徐々に知らないふりをするようになる。
「怒らないから言ってみて」真実を述べるとやはり怒られる。

嘘をつくことで叱られてばかりのこどもは、診察時に質問した時の反応ですぐに気付く。
「宿題やってる?」と聞くと、即座に母(もしくは父)の表情を見てどう答えればよいか窺っている。やってると言えば「そんなことないで しょ!」と、やってないと言えば「ちゃんとやりなさい!」と叱られる。

何らかの質問に対し、こどもが親の顔色をすぐに窺う場合は、家庭での会話の多くが叱責で占められていると判断してよさそうである。なかなか答えらずもじもじしているこどもに対し、親が「お前に聞いてるんでしょ?!」と強く促す時、親の子に対する暗黙の支配構造が見え隠れする瞬間である。

親がなぜそこまでこどもを叱らねばならないのか?社会の多様化と逆行するかのように学校教育は画一化を目指しているように映る。
こどもが学校で課されているのは相変わらず前へならえ!できねば厳しく叱られはじかれる。そ うはさせたくない親の思いが子への「叱責」となって表出するのだろう。

「人前で恥をかかせたくない」「他者の痛みを分かってもらうため」に親は子を叱るのかもしれない。しかし、叱られ続けてこどもが感じ、分かるのは「自分は恥ずかしい人間である」「自分の痛みもよく分からなくなる」こと。 

こどもは親に、体験した出来事をまずは評価せずにまるごと聞いてもらいたいと、いつも思っている。テストで成績が振るわなかったことも、お友達とケンカしちゃったことも、先生から配られたプリントを学校に置き忘れちゃったこ とも、まずはそのまま聞いてあげてほしい。
「そうなの・・・」って。

一方で、親が子をほめることについてはどうだろうか?
ほめ方について「どうやって?」「どこを?」という親からの質問や相談も多い。
ほめることが上手な人に共通するのは、褒め言葉の中に「感謝している」という意味合いを込めているということ。「おおー助かったわ~」「気を利かせてくれたね~」などという言葉掛けである。

こどもたちには「何かに確実に貢献している」という実感を伴うような働きかけが大切である。
役立たずな存在であるという歪曲した認知は、ダメ出しの連続や訴えに耳を傾けない周囲の態度で形成されてゆく。

こどもたちが取る行動について、なぜ望ましいのかもしくは望ましくないのかを説明すること。自ら起こす行動の意味づけを、少しずつ理解できるようゆっくり伝えること。それを繰り返し継続すること。納得のいく理解ができる時は、いずれ社会へ巣立っていった時であってよい。


 

2012年9月12日水曜日

ウソかマコトか

診察の中で「こどもがしばしば嘘をつくので困る」という相談は多い。

こどもが嘘をつくようになるその背景は、「またどうせ怒られるだろう」という考えが固まりつつあることが多い。事実でも嘘でも怒られるのが分かっていると、「忘れた」「知らない」とはぐらかすようになってくる。さらに、親の諦観をこどもが察すると、口を閉ざしてしまうだろう。

特にADHDタイプのこどもたちは、その行動の特性上、叱責を受ける頻度が高くなってしまう。
寛容でなくなりつつある現代社会に、このタイプのこどもたちは随分と過ごしにくさを感じているだろうと思う。周囲が築いている枠を越えたがっているこどもたちの姿に、時々胸を痛めてしまう。

非寛容な状況では、嘘や偽りが増える一方である。何が真実であるのかわからず、皆疑心暗鬼になる。人の目を過剰に気にするようなこどもたちが増えているのは、少しでも枠を外れた主張は却下されてしまうような、社会の非寛容性が一因な気がしてならない。

「まあ、それもありだよね~」というメッセージで、如何ほどのこどもたちが救われるだろうか。
「それはあり得ないでしょ?」の乱発社会に息苦しさを感じているこどもの何と多いことか。

診察ではいろんな話が飛び交うけれど、
「それも“あり”かな」と、枠を大きく広げて診ていくことにしている。
枠を広げてみられるような自らの度量も、広がるといいなと思いつつ・・・。

2012年9月4日火曜日

障害児療育

知的・発達障害児の早期療育を行っている事業所を見学する機会があった。個別支援計画に基づいた、綿密に構造化されたスケジュール、環境整備、ワークシステム・・・など。

早期療育の目的として最も大切なのは、自立を「汎化」させることである。センター内ではできても、あるいは担当職員となら関われても、それ以外の場所や人ではできないのであれば療育の意義に欠ける。

療育の基本となるのはやはり「構造」であろう。TEACCHの理念を否定する一派もあるようだが、どんな人も構造の中で生活しているのを忘れてはならない。例えば職場であれば職階構造があり、指揮命令系統を明確にするためである。明確な構造、フレーム、境界がない状況では、個人自らの成すべきことがぼやけ、集団組織が掲げる目標に到達することはできないだろう。

障害児の早期療育でもう1つ大切なことは、親への心理教育である。むしろ、これを行っていかなければ療育と呼んでいる内容も単なる託児と化してしまう。 療育の基本的な理念は、こどもたちが心身ともに健康な生活を送れるようにしていくことであり、親へのアプローチなしでは成し得ないのは自明である。

障害をもつ子の親のほとんどが望んでいることは、面倒を見ることができなくなっても、食べていけるように、生きていけるように・・・ということ。そんな親の望みを支え続けていくことも、療育なのである。

複雑にこんがらがった社会の中で、埋もれずに生きていってくれればよいと、障害児の親は願い続けている。周囲にいろいろとお願いすることに、引け目をずっと感じてしまっているものである。専門職であれば「気にせずお任せ下さい」と堂々と丸ごと受け入れる度量が必要である。いわゆる「バリアフリー」とはそういう心意気も含むのではないかと感じている。

療育に携わる支援者の心得としては、日常生活上の構造を明確にすることと、親への心理教育を実践すること。そしてこの2つが継続的に行われること。自立の最終目標は汎化であること。こどもの自立を願ういずれ先立つ親の心情を、常に考えていること。 

そんな思いを巡らせながら、療育センターに来ているこどもたちの笑顔に心和まされた。