現代社会を生きるこどもたち
昨日埼玉県の某小学校で職員研修会があり、発達障害に関する話題につき講演を行ってきた。
「落ち着かないこどもたちがたくさんいる。落ち着かせるにはどうしたらいいか」
「話が聞けないこどもたちがとても多く、どうやったら話を聞かせられるようになるのか」
「発達障害のあるこどもたちが増えているのでしょうか」
こんな相談が学校サイドよりとにかく多い。
これらの多くが「発達障害」を背景にした問題行動という認識を持たれている現場も少なくなく、実際果たしてそうだろうか?
自閉症スペクトラム障害やADHDの有病率を考えても、そんなはずはないだろう。
現代社会におけるライフスタイルの変化により、今のこどもたちに課せられる社会的要求が早すぎたり過剰であったりするためか、快適な生活を送る上で大切な睡眠や食生活が過小評価されている気がしている。
寝たいのに寝られない、寝ると宿題をやってないために起こされる、お腹がすいているが親の帰りが遅く待つしかない、空腹に耐えきれずに冷蔵庫を物色すると後々怒られる、寝坊は許されず眠いのにたたき起こされ、登校の準備もままならない状況でパンをかじりながら登校するしかない、こんな毎日が続く中、落ち着けと言われて、はいわかりましたと素直に応じられるであろうか?
親も生活のために働きお金を稼がねばならず必死である。学童がどこも定員いっぱいであることも、不景気回復の見通しが薄い現状を如実に反映しているようだ。こどもの心身の健康のために早く寝かせてご飯を食べさせてあげることの大切さにつき、多くの親は重々承知している。
子育てと生活費を得ることのジレンマとの闘いであり、ジレンマ解消の手立てとして、こどもに早期の自立を促さねばならないことが必然となってしまっている。このような現代情勢であるためか、学校サイドへの要求が保護者より増え、学校が解決できる問題ではないことまで学校が背負わねばならないのが、今の教育現場の実態である。心ある教員程疲弊し、ドロップアウトせざるを得ない状況に追い込まれてしまうのもうなずける。
そして、こどもたちにとって生理的欲求が満たされていない状況では、忘れ物も結果的に多くなるであろう。それを咎められ、準備ができなければ自己責任なのだから恥ずかしい思いをさせ分からせることで行動が修正されると思い込んでいる人は未だ少なくはない。偶発的に起こった出来事でで恥ずかしい思いをしたりするのは私も経験したこともあるし致し方ないとも思うが、わざわざ恥ずかしい状況のセッティングはいかがなものだろうか。
親がこどもの準備を手伝ってあげることを快く思わない教員もまだまだ多い。
「自立が遅れるから」という根拠に乏しい理由で保護者に説明していたりする。
無論、こどもがやれることを先回りしてやる必要はないが、「保護者」とはわが子が学校という集団の場で恥ずかしくみすぼらしく情けない思いをさせないようにすることが、一つの役目であると思う。
こどもたちの育みにおいて、手伝ってもらったことの恩を忘れず感謝の意を表明できるようになることや、準備を手伝ってくれた「恩返し」としてのお手伝いなど別のミッションを遂行させ相互扶助的な関係性の大切さを実感する積み重ねが必要であると感じている。
発達障害に関連するキーワードで必ずあがる「周囲の理解を」ということばが、とても空虚に感じられる今日この頃である。
1 件のコメント:
私もそう思います。
専門家でさえ核心に触れることを恐れていることもあるし、本当の意味での周囲の理解って考えると遠い目になりますねぇ...。
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