2012年6月6日水曜日

対人援助

私は対人援助職として働き始めて10数年になる。その間様々な援助者に出会ったが、援助者の特性について、少々の思いを綴ってみたい。

自分自身につらい体験などがあって、それを人の援助に生かせれば、と考えている人を時々みかける。自分のネガティブな体験を対人援助に活かせることができる人は、私の知る限りごくごく一部の、相当高いインテリジェンスと自己統制能力を有した人たちであり、そうでないと援助者被援助者共倒れの危険性が大きくなるだろう。

自らのつらい体験は、個人の中で汎化されやすい。被援助者にもそれを当てはめようとするあまり、おしつけがましい言葉の投げかけとなったり、提供した援助に応じないと、あからさまに怪訝な態度を表明したりすることが見受けられたりもする。

対人援助においては、他者が感じ考えていることにつき、多角的な想像力が求められる。自らのネガティブな体験を基盤にした想像などは、あくまで一側面に過ぎないのに、それを全体とみなしてしまう危険性を伴いやすい。被援助者が窮地に陥った場合、双方視野狭窄となる可能性がある。

援助者個人が抱える諸問題についての感情や考察を、被援助者に対してやみくもに露出させるのは好ましくない。そのくらい、対人援助とはシビアなものである。しかしながら、それは自らが気付かぬところで露出しているものである。解決しきれていない問題というのは、援助の場面でなくとも、いつの間にか露出してしまうものである。

悩み苦しんでいる人を援助する目的が、「自らの辛い経験を活かすこと」になってしまい、嵌まりこんでいたら援助者、被援助者双方危険である。
辛い経験が援助者にあろうとなかろうと、主たる目的は被援助者の利益が大前提になければならない。それがいつしか、「援助者のための援助」にすりかわっていたとしたら、すぐにでも援助者は手を引くべきであると考えている。

個人的経験に基づく結果から、それは汎化できないであろうと思われる独自法則を導き出しては、それを押しつけるような支援を強行する、そのような場面を嫌というほどみてきた。
「絶対○○になりますからやってみて!」など・・・。 
それでは、当事者は対人援助をすることができないのか?という問いがあるだろう。
決してそんなことはない。しかしながら相当の努力と覚悟を以てして望むことが必然と求められる。なぜ対人援助にこだわるのかをどこまで内省できるかどうかが、求められる。
 
 
 
 
 

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