2012年12月22日土曜日

「普通」って?

「そんなことは“普通”でしょ」普通ではなかった今までの生活だったことを知らされた瞬間、自らを支えてきた何もかもが崩落する。
虐待環境で生活していたこどもたちの「普通」を想像できようか?
夕食がないかもしれないから学校で給食を吐くまで食べ続けることが「普通」であったりすることを。

我々が当然、普通のことと認識している世界は、被虐待児においては異質 で未知な世界である。「家族と一緒にご飯を食べたい」被虐待児からしばしば聞かれる望みを、「それは普通のことだから」と一蹴されることもある。
知らない知られないことがもたらす悲劇であり、虐待の悲劇は様々な側面で露出する。

「甘えてみたかった」と話す虐待を受けてきたこどもたち。甘えたい人に自分だけを見てて欲しいがために、手を変え品を変え様々な行動をみせる。
しかしながらその愛情希求行為は単なるわがままとみなされ、関心すら寄せてもらえない。その繰り返しで孤立を一層深めていく。

「甘え」に応え続けると退行してわがままになる、という認識が広く流布 している印象を持つ。しかし、これは違うだろう。無知を伴った無関心が、回復を阻害する性質を帯びた退行を促進させる。そして、対応しているつもりでも、 被虐待児は見抜いている。「この人知らんぷりしたいんだ本当は」。

被虐待児に関わる際には、まずは他者と「つながっている感じ」を持ってもらうことが大切だろう。
間隔を置いた長時間セッションでの対話よりは、短時間でいいから頻度を多くした顔合わせのほうが安心することが多い。

虐待という複雑で深刻なトラウマを負ったこどもたちの回復には、何が必要なのだろう?SSRI?認知行動療法?EMDR?こどもたちが希求しているのは、まずは自分に向いている確固たる眼差しです。援助者がどこかそっぽを向いた認知行動療法など「もういいです」と断りたくて仕方ないだろう。技法やお薬はあくまで回復を促進させるための手がかりである。

虐待を受けたこどもたちが、トラウマによる苦しみから回復するにつれ 「自分が悪かったのだから仕方ない」という考え方から「もしかして自分は都合よく利用されていたのかもしれない」と変化する時がやってくる。同時に激烈な 怒りと憎悪、そして落胆と絶望が抱き合わせたように頭の中を駆け巡る。

怒り、憎しみ、悲嘆、絶望、抑うつ・・・虐待サヴァイヴァーの回復経過中多くに見られる感情の露出と変化。これらの感情が強烈に前面に顕れたり引っ込んだりしながら「らせん状に」回復する。     

こどもたちに対してしばしば伝えられる「将来きっと役に立つから」というメッセージ。
そんな保証はどこにあるのか?まずは「今」を保証してあげねばそのようなメッセージは何の意味ももたない。特に虐待されてきたこどもたちにおいては、輝いたパースペクティヴを持てずにいるのだから・・・。

将来とは、安心や立ち位置が保証された「今」の積み重ねである。

将来というものは、突然はやってこない。

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